真宗 大谷派 川勝山 道教寺

真宗 大谷派 川勝山 道教寺

道教寺とはDOKYOJI TEMPLE

道教寺の起源

和泉の秦氏

世紀ごろに倭国に渡来し、聖徳太子の側近として活躍した
秦河勝を筆頭とする渡来系氏族が居住し、
現在では廃寺となった秦廃寺と呼ばれる氏寺を建立し、
現在の半田町の一帯に住んでいた一族がいた。
余談になるが半田は古くは秦(はた)村と呼ばれており、
その読みが訛り現在の半田(はんだ)という名の由来になったという。
その子孫である秦 道宣が14世紀ごろ開基した
真宗大谷派の寺院が川勝山 道教寺である。
山号である川勝は、祖先の秦 河勝の名を冠したといわれる。

寺院開基

14世紀ごろ、親鸞聖人の孫にあたる
本願寺三世の覚如が紀州への参詣の途中に当地に立ち寄った際、
道宣(当時、秦右兵部)が上人に帰依し、道宣という法名を頂いて、道教寺を開いた。
当時は鎌倉時代末期から南北朝時代にまたがり、
こと泉州地域でも楠木正成や足利尊氏などが戦火のなか奔走していた時代である。
道宣は、当時の状況を憂い、先の見えない戦乱のなか
人々の心に生きていく道しるべとなれるよう、
道教寺を開基したのだろう。

境内

本殿

本殿MAIN SHRINE

1991年に火災により本堂が全焼、
その後、道教寺門徒総代並び寺族の懸命な尽力により、
2001年に新たに念仏相続・聞法道場として道教寺の再建が叶う。
本尊である阿弥陀像は火災の中、
当時住職であった祐宣が救出したおかげで今も現存している。
本堂外陣は参詣者がなるべく多く参れるように広くなっており、
内陣の天井には、当時の道教寺婦人会の人々が色を塗った
花絵が敷き詰められている。

鐘

TEMPLE BELL

楠木正成が元弘の乱の時に陣鐘として、
山峰を転輪したものと伝承され、
貝塚市の有形文化財に指定されている。
戦時下の多くのお寺が鐘の供出を強いられた中で、
戦にとっては縁起が良いものとして供出を免れた数少ない鐘である。
もとは戦の鐘ではあるが、
今はすこやかな子どもたちの成長を報告する
平和の鐘として使用されている。
もとは本願寺堺別院の所有であったものを、
当院の八代住職教祐の本山での功より当院の所有となった。

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