道教寺報DOKYOJI REPORT
投稿日:2026年5月1日
No.485 2026年5月号
投稿日:2026年5月1日
No.485-2026年5月号
御陰様
先日お参りで「おかげさまで、無事に終わりました」と笑顔で声をかけていただきました。
私たちはごく自然にこの言葉を口にします。馴染み深い言葉ですが、その意味を考える機会は、案外少ないのかもしれません。
この言葉の語源は、文字通り「陰」という字にあります。
もともとは、身分の高い人の陰に控えて守ってもらうことや、神仏の慈悲という目に見えない守護を指していました。
それが転じて、今の私たちの日常を支えてくれている「目に見えないはたらき」への感謝を表す言葉になったそうです。
例えば、真夏の暑い日に、大きな木の下に入るとふっと涼しさを感じます。
あの木陰(こかげ)のような存在が、私たちの人生には無数にあります。
朝、蛇口をひねれば当たり前に出る水。
重い荷物を運んでくれる運転手さん。
夜道を照らす街灯。
私一人では出来ない事を、誰かが代わりに引き受けてくれている。
そんな「陰の力」の積み重ねが、私の今日を成り立たせています。
仏教では、こうした目に見えないつながりを「縁(えん)」と呼びます。
私たちはつい、自分の頑張りや目に見える成果ばかりに光を当てて、「自分がやった」という思いを強く持ちがちです。
しかし、どれほど光が強く当たっても、その反対側には必ず「陰」が存在します。光を支えているのは、実はその陰のほうなのです。
「おかげさま」の「さま」は、自分を支えてくれる全ての存在への敬意を表します。自分だけで生きていると思うと、心に余裕がなくなり他人に厳しくなります。けれど無数の「陰」に守られていると気づけた時、トゲトゲした心は不思議と丸くなり、安心感が広がる気がします。
今日という日を無事に終えられた背景に、どんな「陰」があったのか。
そんな「おかげさまの正体」を思い浮かべてみるだけで、また明日を少しだけ穏やかに迎えられる気がします。
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四月・五月の予定
永代経
五月二十四日(日)
午後二時より
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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dokyoji.gram
投稿日:2026年4月1日
No.484 2026年4月号
投稿日:2026年4月1日
No.484-2026年4月号
正
「それは違うと思う」
口にすると場の空気が変わる言葉がある。
自分は正しいことを言っているのに、なぜか関係がぎくしゃくしてしまう。そんな経験はありませんか。
私たちは「正しさ」を拠り所にしています。しかしその正しさは、知らずに勝ち負けを生み出し、自分の意見が通れば正しく、それ以外は間違い。気づけば、意見の違いが、どちらが正しいかという争いへと変わっていきます。
会議の場で、軽く口にした一言。
その意見に反対されると、本当は、ただ『意見』が否定されただけなのに、どこか自分を否定されたように感じてしまいます。すると「いや違う」と言い返したくなり、相手もまた「いや違う」と返す。そうしていると、話は意見の良し悪しではなく、引けなくなった者同士のぶつかり合いに変わっていきます。
そんな時、関西でよく聞く「知らんけど」という言葉を思い出します。無責任なようでいて、自分の考えも絶対ではない、という余白を残す言葉です。この余白がある事で、言葉は争いではなく、やり取りとして流れていきます。
仏教では、自分の考えにとらわれることを執着(しゅうじゃく)といいます。
「正しさ」にしがみつくほど、自分も苦しくなり、相手をも縛ってしまうのでしょう。
さらに立場があると言葉の重みは増します。何気ない一言が絶対となり、引くことも変えることも難しくなる。
その姿を見ていると「正しさ」に縛られる苦しさを感じるばかりです。
もしかすると私たちは「正しいかどうか」という枠の中で物事を見過ぎているのかもしれません。
その枠を少し外してみると、そこにはただ「違い」があるだけの世界が広がっています。
正しさを求め続けるのではなく、そこから少し離れてみる。
そのとき初めて、人とも自分とも、少し楽に向き合えるのかもしれません。
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四月・五月の予定
永代経
五月二十四日(日)
午後二時より
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投稿日:2026年3月1日
No.483 2026年3月号
投稿日:2026年3月1日
No.483-2026年3月号
途
人生は、いつも途中です。
完成したと思った次の瞬間、また迷いが生まれる。落ち着いたはずなのに、心は揺れ、選び直しながら進んでいきます。
私たちは常に、途上の存在です。
最近、AIが人間のように文章を書き、会話をし、絵まで描く時代になりました。
しかし、その仕組みは意外に素朴です。昔ながらのプログラムは、「こうなったらこうする」と人が細かく道順を決めていくものでした。同じ条件なら必ず同じ答えにたどり着く。「1+1=2」の世界です。正確ですが、想定外には弱い。2以外は誤り、と切り捨てる世界です。
ところが今のAIは違います。膨大なデータから、「この流れなら次は何が一番らしいか」を確率で選びます。
絶対の正解を知っているわけではない。外れも含めながら、少しずつ精度を上げていく。完璧ではなく、揺らぎを前提にした仕組みです。
実は、私たちにも似ています。
これまでの経験から「たぶんこうだろう」と判断しながら生きている。言い換えれば、経験則という確率の中を歩いている存在です。
けれど、その経験はしばしば外れます。思い込みで人を傷つけ、間違いを重ねる。
私たちは「1+1=2」にならないこともある。1に届かないときもあれば、3になってしまうこともある。それが人間です。
浄土真宗では、煩悩(ぼんのう)を抱えた凡夫(ぼんぶ)のまま救われる、と説きます。自分の計算が狂い、自分の経験が崩れる、そのただ中で、他力(たりき)に遇(あ)う。完璧だからではない。
揺らぐ存在だからこそ、見捨てられないという教えです。
人生は完成図ではありません。いつも「途」の上。
揺れながら、迷いながら、それでも歩みは止まりません。
きっちり2にならなくていい。
1にも3にもなりながら、それでも2を目指し前を向く。
未完成であるということは、まだ続きがあるということ。
その続きを歩めること自体が、尊いのだと思います。
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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dokyoji.gram
投稿日:2026年2月1日
No.482 2026年2月号
投稿日:2026年2月1日
No.482-2026年2月号
名
あなたの名前は、誰につけて頂きましたか。お父さん、お母さんでしょうか。
あるいは祖父母、昔は、お寺のご住職という時代もあったそうですね。
思い返すと、自分の名前を嫌だと思ったことはありませんが、子どもの頃、友達の名前がかっこよく見えて、少し羨ましく感じたことはあります。何度も自分の名前を書くことや、呼ばれたりする中で、「もう少し短くて、おしゃれな名前やったらなぁ…」なんて。
でも大人になるにつれ、不思議と自分の名が好きになってきた気がします。
友人や大切な人たちが、あだ名をつけてくれたり、呼び方を変え、いろんな形で呼んでくれる。その中で、名前に愛着が持てるようになってきました。
名前とは、単なる記号ではなく、誰かの願いがこめられた言葉です。
元気に育ってほしい、幸せになってほしい、やさしい人になってほしい。そんな祈りがたった一言に込められ、私たちはそれを毎日聞きながら生きています。
仏さまにも、名前があります。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という六文字は、阿弥陀さまが私たちに向けて名乗られた名号(みょうごう)。そのお名前には、すべての人を「必ず救う」という深い願いが込められています。
阿弥陀さまは、すべての人を救いたいという想いから、仏になる前に「四十八の願い」を立てられました。これは、「こんな世界で、こんな仏になってみせます」という具体的な約束ごとのようなものです。その中でも特に中心となるのが「第十八願」。そこには、「もし私の名が呼ばれなければ、私は仏にはならない」とまで誓われています。
つまり、阿弥陀さまは、「あなたにこの名を呼んでほしい」「私の願いを受け取ってほしい」と、強く、強く願われています。
だからこそ私たちは、その願いを受けとって、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏し、仏さまの名を称(とな)えさせて頂くのです。
親が子に、仏さまが私たちに、名前を通し届けているのは見えないけど確かな「想い」です。
呼ぶこと、呼ばれること、その一つひとつが、縁(えん)の中で命を暖かく繋いでいきます。
今日も、あなたの名前が、誰かにやさしく呼ばれる一日でありますように。
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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投稿日:2026年1月1日
No.481 2026年1月号
投稿日:2026年1月1日
No.481-2026年1月号
願
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
年のはじめに神社やお寺に足を運ぶ人は多いものです。
「無病息災」「家内安全」「受験合格」「世界平和」など、手を合わせる姿には、それぞれの切実な思いが込められています。
ある神社でお賽銭の平均額を調べたそうです。参拝者数で割ると、一人あたりなんと6円。世界平和まで願って6円では、すこし気が引けるような、思わず笑ってしまうような数ですが、それも「願わずにはいられない」そんな気持ちが人間らしく感じます。
ただ、仏教では「願い」とは、単に希望を託すものではなく、「どう生きたいか」という問い直しの場でもあります。願ったから叶うわけでもないし、願わなかったから不幸になるわけでもない。けれど、何かを願うことで、自分の心の奥にある本音や、大切にしたいことに気づかされる。
そんなふうに、願いは自分自身と向き合うきっかけになるのかもしれません。
そしてもう一つ、大事なことがあります。それは、「私たちは、自分の願いだけで生きているわけではない」ということ。
ふとした時に思い出す、誰かの声や表情。うまくいかなかった日に寄り添ってくれた言葉。それらはみんな、私のためを思ってくれた「願い」のようなものだったと思うのです。
自分が願う以前に、実はもう誰かの願いの中に私たちは生きている。そのことに気づけた時、ちょっと心がほどけるような気がします。何かをがんばろうと思える時、心の底では誰かの思いが背中を押してくれていた、そんなこともあるのではないでしょうか。
「他力本願」という言葉があります。今では「他人任せ」と勘違いされる事も多いですが、本来は「誰か(阿弥陀さん)の願いに支えられて生きている自分に気づくこと」。自分だけの努力でなんとかしようと頑張りすぎる私たちに、「ひとりじゃないんだよ」と語りかけてくれる仏教の言葉です。
年のはじめ、願いごとを一つ思い浮かべると、誰かの願いが自分に届いていたことにも、そっと耳を澄ませてみませんか。
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
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