道教寺報DOKYOJI REPORT
投稿日:2026年10月1日
No.490 2026年10月号
投稿日:2026年10月1日
No.490-2026年10月号
さようなら
「いのちは、いつから始まるのですか」と尋ねられたことがあります。
生まれた日からでしょうか。それとも、お腹の中にいるときからでしょうか。
考えてみると、はっきりした線はどこにも見つかりません。
心臓が動きはじめた日、名前が決まった日、その子のことを思いはじめた日。
どこで区切っても、なにか大事なものがこぼれ落ちてしまう気がします。
私たちは、線を引くと安心します。
始まりと終わりが決まっていれば、数えることができるからです。
分からないままにしておくと、どこか落ち着かないものです。だからいのちにも、つい「長さ」を当てはめてしまいます。
何歳まで生きたか、早かった、遅かった。
長く生きた人は幸せで、短かった人は気の毒だと、いつのまにか数字で値打ちを決めています。
寿算(じゅさん)という言葉があります。その人に与えられた、いのちの年数のことです。
けれど不思議なことに、仏さまは無量寿(むりょうじゅ)と申します。
量ることのできない、いのち。長い短いでなく、そもそも私の物差しでは届かないもの、ということだそうです。
私がここにいるのは、誰かが私を願ってくれたから、その人も、誰かに願われて生まれてきました。
そう考えると、いのちの始まりは、私の身体よりずっと前にあるのかもしれません。
お腹の中にいた頃のこと、私は何ひとつ覚えていません。
それでも確かにそこにいました。
覚えていなくても、いのちは続いています。
そして私がいなくなった後も、誰かが思い出してくれるあいだは、どこかで続いていくのでしょう。
いつ始まり、いつ終わるのか。その答えは、やはり分からないままです。
ただ、いま、ここにあること。それだけは確かだと、今日も静かに思います。
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十月・十一月の予定
報恩講
十一月八日(日) 勤行 午後二時より
十一月九日(月) 勤行 午後二時より
九日:園児参拝あり
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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dokyoji.gram
投稿日:2026年9月1日
No.489 2026年9月号
投稿日:2026年9月1日
No.489-2026年9月号
さようなら
そう言われた瞬間、少し寂しくなること、ありませんか。友達との別れ、卒業、転勤、大切な人との最後の時間。
本当は「またね」と言いたいのに、なぜか「さようなら」の方が胸に重く響く時があります。
私たちはつい、別れの寂しさに、希望や祈りをそっと添えようとします。
英語の「Good-bye」は「神があなたと共にありますように」という祈り。「See you again」は、また会えるという約束から生まれた言葉だそうです。
どちらも、別れの寂しさを、祈りや希望に包んで届けようとする言葉のようです。
それだけ、人は別れをそのまま見つめることが、苦手なのかもしれません。寂しさから目をそらして、「また会える」と自分に言い聞かせる。
それも、優しい心のはたらきだと思います。
では日本語の「さようなら」はどうでしょう。
もとは「左様(さよう)なら」という言葉。「そうであるならば」という意味だそうです。再会を約束するでもなく、悲しみを取り繕うでもなく、ただ「そうか、そうなんだな」と今そこにある事実をそのまま受け止める言葉です。
仏教では、物事をあるがままに見ることを大切にします。
無常(むじょう)というのは、すべてがうつり変わっていくということ。出会いがあれば、別れが来るのも自然なこと。
その流れに逆らわず、そのまま受け止める強さを、昔の人は、たった一言の挨拶に込めていたのかもしれません。
希望にすがるのも、現実をそのまま受け止めるのも、どちらも間違いではないはずです。
ただ、次に誰かと別れる時、「また会おうね」という言葉の後に、そっと「そうか、これで良かったんだな」と付け足してみる。
出会いも別れも、同じひとつの無常の流れの中にあります。
「さようなら」その挨拶の奥にある温かさに、ふと気づく日が来るのかもしれません。
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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dokyoji.gram
投稿日:2026年8月1日
No.488 2026年8月号
投稿日:2026年8月1日
No.488-2026年8月号
慢
大切な人ほど雑に扱ってしまう。そんな事に心当たりはないでしょうか。
出会った頃は、言葉を選び、気を遣っていたはずです。それなのに、仲良くなるにつれて、だんだん遠慮がなくなっていく。家族や、長年の友人。一番近くにいるはずの人にこそ、つい、きつい言葉を投げてしまう。「ありがとう」も「ごめんね」も、省いてしまうことが多くなる。その一方で、少し距離のある人には、今でもちゃんと丁寧に接している。そんな覚えのある方も多いのではないでしょうか。
これは、相手が嫌いになったわけではありません。近くにいる人は、いつ
のまにか「生活の一部」になってしまいます。家にある家具のように、毎日見ている景色のように、そこにいる事が当たり前になっていく。当たり前になったものは、不思議と大切にする気持ちが向きにくくなってしまう。そういうところが、私たちにはあるのかもしれません。
仏教には、「慢(まん)」という言葉があります。人と比べて驕り高ぶることだけでなく、「この人は、いつも同じ人だ」そう決めてかかる心も、慢の一つなのだそうです。でも、本当は違います。自分も、相手も、昨日と今日とでは、少しずつ変わっているはずです。体の調子も、気分も、考えていることも。同じように見えて、まったく同じ日は一日もありません。同じ人だと思い込んでいると、今日、目の前にいるその人をちゃんと見なくなってしまう。近くにいるからこそ、その小さな変化に、つい気づかずにいるのです。
親しさというのは、安心とすぐ隣り合わせに、そんな危うさも抱えているのかもしれません。
今日会うその人は、昨日と同じ人でしょうか。それとも、今日はじめて出会う人でしょうか。
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八月・九月の予定
お盆会
八月十四日(金) 勤行 午後五時より
灰供養
八月十五日(土) 受付 午後四時半より
勤行 午後五時より
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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dokyoji.gram
投稿日:2026年7月1日
No.487 2026年7月号
投稿日:2026年7月1日
No.487-2026年7月号
忘
大切な人を亡くした時、深い悲しみに包まれます。
葬儀が終わり、しばらくは涙が止まらない日が続くこともあるでしょう。
でも、日常を過ごしているうちに、少しずつ、その悲しみが薄れていきます。
仕事に行き、ご飯を作り、誰かと笑い合う。そんな毎日を重ねるうちに、気づけば悲しみが遠くなっている。そんな自分に気づいて、驚くことがあります。
「もう平気になっている」自分は薄情なんかな、って思ってしまったことがあります。
あれだけ大切だった人のこと、いつの間にか普通に過ごせるようになっている。
それでいいんかなぁ、忘れてしまったんかなぁ、と。
ですが、忘れたわけではないのだと思います。
記憶には、すぐに引き出せる記憶と、奥にしまわれていて簡単には出てこない記憶があるそうです。
よく言う記憶喪失でなくなるのは前者の方で、後者は取り出しにくくなっているだけで、ちゃんとそこに存在しているといいます。悲しみも同じで、表に出てこなくなっただけで、消えてしまったわけではないそうです。
仏教に「阿頼耶識(あらやしき)」という言葉があります。
経験したこと出会った人の縁は、すべて種のように、心の奥深くに蓄えられている考え方です。
普段の生活では忘れていても、本当に大切な種は、ちゃんと残っているそうです。
何かのきっかけに、ふっとその人のことを思い出すのも、その種が芽を出しているからなのかもしれません。
誕生日が近づいた時や、ふと似た景色を見た時に涙が出るのも、その種が静かに息をしている証なのかもしれません。
だから、悲しみが薄れていっても、大丈夫なのかもしれません。
忘れることは、その人を失うことではなく、心の奥にちゃんと抱えたまま、今を生きていくということなのだと思います。
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七月・八月の予定
お盆会
八月十四日(金) 勤行 午後五時より
灰供養
八月十五日(土) 受付 午後四時半より
勤行 午後五時より
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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dokyoji.gram
投稿日:2026年6月1日
No.486 2026年6月号
投稿日:2026年6月1日
No.486-2026年6月号
運
「あの人、なんで運がいいんやろ」
そう思ったこと、ありませんか。
良い話が舞い込んでくる人、ちょうどいいタイミングで助けてもらえる人、なんとなくいつも上手いく人。
不思議と、そんな人はどこにでもいるものです。
そして少し羨ましくて、自分はなんで…と思ってしまうこともある。
こんなふうに考えたことがあります。
りんごが木から落ちてくる。それ自体は、確かに運です。自分でコントロールできるものじゃない。でも、りんごが落ちそうな木の近くにいるか、カゴを構えて待っているかどうか、それは自分で決められる。
運そのものは選べない。
でも、運が落ちてきたときに拾える場所にいること、ちゃんと受け取れる準備をしていること。
それが「運のいい人」と「そうでない人」の、案外シンプルな違いなのかもしれません。
では、カゴを構えるとは、具体的にどういうことでしょうか。
難しいことではないと思っています。挨拶をちゃんとする。
返事をする。頼まれたことを丁寧にやる。
してもらったことに「ありがとう」と伝える。
そういう日常のごく小さなことが、人との縁をつなぎ、運の通り道をつくっていくのではないかと思うのです。
逆に言えば、運が来ていても気づかない、受け取れないということも起きてくる。
カゴを持たずにいると、りんごはそのまま地面に落ちて、転がっていってしまいます。
仏教では「精進(しょうじん)」という言葉があります。
特別なことをするのではなく、今日できることをコツコツと続けること。その積み重ねが縁を育て、縁がやがて運になっていく。派手さはないけれど、そこに確かな道がある気がします。
運を待つのではなく、運が来たときに受け取れる自分でいる。
今日一日を振り返ってみてください。
カゴ、ちゃんと持っていましたか。
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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