真宗 大谷派 川勝山 道教寺

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道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2024年12月1日

No.468 2024年12月号

投稿日:2024年12月1日

No.468-2024年12月号

塵を払い、垢を除かん

塵を払い、垢を除かん

年の瀬となり、大掃除の季節になりました。新年を心地よく迎える為に、普段以上に念入りに掃除をする方も多いのではないでしょうか。家の中が整うと心も気持ちもすっきりしますよね。

掃除といえば、お釈迦様のお弟子・周利槃特(しゅりはんどく)の話を思い出します。彼はとても物覚えが悪く、なんと自分の名前さえも覚えられなかったと言います。周囲の弟子たちからも笑われ、恥ずかしい思いをした彼は、「自分は仏弟子としての資格がない」と教団を去ろうとしました。その時、お釈迦様は彼に一本の箒(ほうき)を渡し、「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除かん」と唱えながら掃除をしなさい、と勧められます。周利槃特は言われた通り、毎日「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃除を続けました。

掃除を続ける彼はある日、掃除したばかりの場所を子どもたちが汚してしまい、彼は思わず怒りを爆発させてしまいました。その瞬間、彼はハッと気づきます。「お釈迦様がおっしゃる塵や垢は、外にある物だけでなく、私の心の中にも怒りや欲望、人に認められたい、そんな執着が積もっていたんだ」と。この気付きから、掃除はただの作業から自分の心の掃除へ変わりました。そして長い年月をかけ、周利槃特は阿羅漢(あらかん)という悟りの境地に達したのです。

掃除という行いは、目に見えるものをきれいにするだけでなく、自分の内面を見つめる時間にもなります。例えば、どんなに綺麗にしたと思っても、またすぐに汚れが溜まるように、私たちの心も気づかぬうちに煩悩(ぼんのう)や迷いで曇っていきます。それらを放置せず、気づくたびに払い清める。その繰り返しが、心を整え、日々を心地よく生きることにつながるのではないでしょうか。

今年の大掃除は、周利槃特のように「塵を払い、垢を除かん」と心で唱えながら取り組んでみてはいかがでしょう。きっと、掃除をしながら新しい発見や気づきが得られるかもしれません。そしてきれいな空間と清々しい心で、新しい年を迎えられますように。


十二月・一月の予定
はぐくみの鐘
 十二月三十一日(火)
  午後八時より
   ※お蕎麦お雑煮をご用意しています。


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投稿日:2024年11月1日

No.467 2024年11月号

投稿日:2024年11月1日

No.467-2024年11月号

自己とは何ぞや。

自己とは何ぞや。

この言葉は、大谷大学の初代学長である清沢満之が遺したもので、私が住職になる為の修練を受けた際のテーマでした。
修練では、様々な背景や価値観を持つ人々と寝食を共にし、座談を通じて多くのことを話し合いました。
その中で、自分はどうなのかと自らを見つめ直す機会を得ました。

私たちは普段、自分のことをよく知っているつもりで過ごしていますが、実際には他者との関わりの中でしか本当の自分は見えてこないものです。独りで考えていても答えは曖昧で、悶々とするばかりです。
なぜなら、自分の姿は自分では一番見えにくいからです。まるで鏡がなければ自分の顔が見えないように、自己を知るためには他者という「鏡」が必要です。
他者との関わりを通して、自分の言動がどう映し出され、どう受け取られているかを知ることで、初めて本当の自分に気づくことができるのです。周囲との関係性の中でこそ、私たちは自己を理解し、成長していけるのです。

これは現代を生きる私たちへの問いでもあります。日常の中で多くの人や出来事に出会い、時には喜びや悲しみを経験しますが、果たして私たちは本当に自分自身と出会っているでしょうか。「私はこうだ」と決めつけ、他者と向き合わずに自己を見失っていることもあるのではないでしょうか。

私も住職として多くの人々と関わり、様々な経験を重ねてきましたが、やはり自分自身と本当に向き合っているかという問いは常にあります。他者との関わりの中で自己が少しずつ見えてくる反面、時には見失うこともあります。だからこそ、他者との関係を大切にし、自己を探し続けることが必要だと感じています。

私たちは誰とも代わることのない一度きりの人生を生きています。
その中で、自分と出会い、本当の自分を知ることが、まさに「人生の根本的問題」なのかもしれません。
この問いに向き合い続け、少しずつでも自己を明らかにしながら歩んでいきたいと、改めて感じています。


十一月・十二月の予定
はぐくみの鐘
 十二月三十一日(火)
  午後八時より
   ※お蕎麦お雑煮をご用意しています。


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投稿日:2024年10月1日

No.466 2024年10月号

投稿日:2024年10月1日

No.466-2024年10月号

聞

日常で、話を聞くという行為は当たり前ですが、仏教では「聞思」「聞法」といわれるように、聞くことが修行の一環として大切な意味を持っています。
一方、「分かった」という事は、非常に危険な事とされます。例えば、昔誰かに叱られた時「分かった、分かった」と口にしませんでしたか?それは、早くその話が終わって欲しい、そんな気持ちから発してはいませんでしたか。

人は、最初に聞いた事や自分が納得した事に対し「分かった」と安易に頷きがちです。そして「分かった」と思った事と異なる事を言われると、自分を守るため反論しがちです。たとえ、それが自分にとって新しい知見や、正しいものでも、素直に受け入れるのは難しいと感じることが多いでしょう。

実際、人の話を本当に聞くということは、思っている以上に難しい行為です。特に、自分の知識や経験が増えれば増えるほど、他者の話を柔軟に受け入れることが難しくなります。

阿弥陀経(あみだきょう)に、「舎利弗(しゃりほつ)」というお釈迦様の智慧第一の弟子が登場します。彼はお釈迦様の悟りに最も近く、後継者と期待された存在ですが、阿弥陀経の中では一度も言葉を発しません。
お釈迦様が彼の名前を36回も呼びますが、舎利弗はただ沈黙し、聞き続けるだけなのです。この経典は他のお経が質疑応答形式で書かれているのに対し、無問自説経と呼ばれ、問いもなく説法が続いています。

では、なぜ舎利弗は「分かりました」と言わないのでしょう。それは「分かった」と言った瞬間、お釈迦様の話をもう聞く必要がない事になります。
「こういうことですか?」と確認する事も、ただ理解していると主張するだけでしかありません。舎利弗は、ただひたすらお釈迦様の言葉を聞き続けたいと思っていたのでしょう。

私たちも、話を聞くときに「分かった」と簡単に結論づけるのではなく、常に問いを持ちながら聞き続けることが大切です。その姿勢こそが、新たな気づきや成長をもたらしてくれるのではないでしょうか。


十月・十一月の予定
報恩講
 十月二十七日(日)午後二時より
   二十八日(月)午後二時より
   ※園児参拝二十七日


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投稿日:2024年9月1日

No.465 2024年9月号

投稿日:2024年9月1日

No.465-2024年9月号

謝

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
(恩徳讃)

恩徳讃は、阿弥陀如来の慈悲とそのご恩に対する喜びと『感謝』の歌です。
親鸞聖人が84歳の時、息子・善鸞との断絶という深い悲しみの中で生まれた和讃の一つです。
阿弥陀如来は、そんな深い悲しみや痛みに直面しても生きるしかない私たちを救う為、先に身を粉にし、骨を砕くようなご苦労されている。そのご恩に対し親鸞聖人は、いくら身を粉にし、骨を砕いても足りないほどの、溢れんばかりの喜びと、如来の慈悲とご恩と徳に対する深い感謝の気持ちが込められています。

さて、「感謝」という言葉は「謝りを感ずる」と書きますが、「感謝」に「謝り」という文字があることに違和感を覚えるのは私だけでしょうか。謝罪にも使われる「謝り」は何となく理解できますが、「ありがとう」の感謝に言葉にも使われているのは不思議に思い調べてみました。

『謝』という字を調べると、「心の負担をおろしてせいせいする」という解釈が出てきますが、少しわかりにくいですよね。『謝』という漢字は「言」と「射」で成り立っています。「言」は言葉を意味し、「射」は張り詰めた弓が放たれて、その緊張が解ける様子を表しています。つまり、言葉にすることで心の緊張や不安が解け、心の負担が軽くなる様子を表しているのです。

例えば、一人で頑張って張り詰めている時、そっと助け船をだしてもらって気持ちが軽くなり、「ありがとう」。
また、些細な言い合いで意地を張り、冷静になって自分の間違いに気づき「ごめんね」
これらは、「感謝」や「謝罪」の言葉を発することで、張り詰めた気持ちがほぐれる様子を表しています。
だからこそ、「ごめんね」や「ありがとう」を言葉にして伝えることは、相手のためだけではなく、自分のためにもなるのでしょう。


九月・十月の予定
報恩講
 十月二十七日(日)午後二時より
   二十八日(月)午後二時より
   ※園児参拝二十七日


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投稿日:2024年8月1日

No.464 2024年8月号

投稿日:2024年8月1日

No.464-2024年8月号

法名・戒名

法名・戒名

子供が生まれる時、親御さんや家族がその子の健やかな成長や幸せな未来を願って思いを形にするのが、お名前だと思います。それと同じく、法名や戒名も人の生き様や、思いや願いが形となっている重要なものです。

法名や戒名は通常、亡くなった後に付けられる場合が多いので、個人的にはその人の生前の足跡や、大切にしていた思いが込められる法名になれば、ご家族にとっても親しみやく、故人への偲いを馳せる手がかりにもなると思っています。
お葬式で法名を考える際も、故人の名前やお経から文字を頂く場合も多いですが、もっと時間があれば、より深くご家族のお話などを伺って、故人のお姿を表した法名が付けられればと、常に思っています。
しかし、現実には急なお葬儀が多く、ご家族もご準備に追われる中、そのような時間が中々取れずにいます。

また、浄土真宗では法名ですが、他宗で一般的によく言う戒名とは、意味合いが異なります。
戒名は、仏教徒として、戒律守りながら修行を行う人々が持つ名前として与えられます。その人の修行と信仰、社会貢献度に応じて、位(くらい)・階位があり、居士(こじ)、大居士(だいこじ)などの位号(いごう)が付けられます。

一方で、浄土真宗の法名は「戒律を一つも守ることができずに苦悩する私たちを必ず救い、浄土へ迎える」という阿弥陀如来のはたらきに身を委ねる、念仏者としての名告(なの)りです。

また、法名は「釋(しゃく)〇〇」として、お釈迦さんである、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の姓である「釋」を頂戴し、仏弟子であることを意味し、女性の場合は「尼」を加え「釋尼(しゃくに)〇〇」と表されます。

また、法名は念仏者としての名告りであり、本来は死後に付けられるものではなく、本山などで行われる敬帰式(ききょうしき)において、法名を受けることが出来ます。
また、ご興味がありましたら、お気軽にお問い合わせください。


八月・九月の予定
 お盆会
  八月十五日 勤行 午後五時より
 灰供養
  八月十六日 受付 午後四時三十分
        勤行 午後五時より


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