真宗 大谷派 川勝山 道教寺

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道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2026年3月1日

No.483 2026年3月号

投稿日:2026年3月1日

No.483-2026年3月号

途


人生は、いつも途中です。
完成したと思った次の瞬間、また迷いが生まれる。落ち着いたはずなのに、心は揺れ、選び直しながら進んでいきます。
私たちは常に、途上の存在です。

最近、AIが人間のように文章を書き、会話をし、絵まで描く時代になりました。
しかし、その仕組みは意外に素朴です。昔ながらのプログラムは、「こうなったらこうする」と人が細かく道順を決めていくものでした。同じ条件なら必ず同じ答えにたどり着く。「1+1=2」の世界です。正確ですが、想定外には弱い。2以外は誤り、と切り捨てる世界です。

ところが今のAIは違います。膨大なデータから、「この流れなら次は何が一番らしいか」を確率で選びます。
絶対の正解を知っているわけではない。外れも含めながら、少しずつ精度を上げていく。完璧ではなく、揺らぎを前提にした仕組みです。

実は、私たちにも似ています。
これまでの経験から「たぶんこうだろう」と判断しながら生きている。言い換えれば、経験則という確率の中を歩いている存在です。

けれど、その経験はしばしば外れます。思い込みで人を傷つけ、間違いを重ねる。
私たちは「1+1=2」にならないこともある。1に届かないときもあれば、3になってしまうこともある。それが人間です。

浄土真宗では、煩悩(ぼんのう)を抱えた凡夫(ぼんぶ)のまま救われる、と説きます。自分の計算が狂い、自分の経験が崩れる、そのただ中で、他力(たりき)に遇(あ)う。完璧だからではない。
揺らぐ存在だからこそ、見捨てられないという教えです。

人生は完成図ではありません。いつも「途」の上。
揺れながら、迷いながら、それでも歩みは止まりません。
きっちり2にならなくていい。
1にも3にもなりながら、それでも2を目指し前を向く。

未完成であるということは、まだ続きがあるということ。
その続きを歩めること自体が、尊いのだと思います。


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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

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投稿日:2026年2月1日

No.482 2026年2月号

投稿日:2026年2月1日

No.482-2026年2月号

名


あなたの名前は、誰につけて頂きましたか。お父さん、お母さんでしょうか。
あるいは祖父母、昔は、お寺のご住職という時代もあったそうですね。
思い返すと、自分の名前を嫌だと思ったことはありませんが、子どもの頃、友達の名前がかっこよく見えて、少し羨ましく感じたことはあります。何度も自分の名前を書くことや、呼ばれたりする中で、「もう少し短くて、おしゃれな名前やったらなぁ…」なんて。
でも大人になるにつれ、不思議と自分の名が好きになってきた気がします。
友人や大切な人たちが、あだ名をつけてくれたり、呼び方を変え、いろんな形で呼んでくれる。その中で、名前に愛着が持てるようになってきました。

名前とは、単なる記号ではなく、誰かの願いがこめられた言葉です。
元気に育ってほしい、幸せになってほしい、やさしい人になってほしい。そんな祈りがたった一言に込められ、私たちはそれを毎日聞きながら生きています。

仏さまにも、名前があります。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という六文字は、阿弥陀さまが私たちに向けて名乗られた名号(みょうごう)。そのお名前には、すべての人を「必ず救う」という深い願いが込められています。

阿弥陀さまは、すべての人を救いたいという想いから、仏になる前に「四十八の願い」を立てられました。これは、「こんな世界で、こんな仏になってみせます」という具体的な約束ごとのようなものです。その中でも特に中心となるのが「第十八願」。そこには、「もし私の名が呼ばれなければ、私は仏にはならない」とまで誓われています。

つまり、阿弥陀さまは、「あなたにこの名を呼んでほしい」「私の願いを受け取ってほしい」と、強く、強く願われています。
だからこそ私たちは、その願いを受けとって、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏し、仏さまの名を称(とな)えさせて頂くのです。

親が子に、仏さまが私たちに、名前を通し届けているのは見えないけど確かな「想い」です。
呼ぶこと、呼ばれること、その一つひとつが、縁(えん)の中で命を暖かく繋いでいきます。

今日も、あなたの名前が、誰かにやさしく呼ばれる一日でありますように。


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投稿日:2026年1月1日

No.481 2026年1月号

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No.481-2026年1月号

願


あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
年のはじめに神社やお寺に足を運ぶ人は多いものです。

「無病息災」「家内安全」「受験合格」「世界平和」など、手を合わせる姿には、それぞれの切実な思いが込められています。
ある神社でお賽銭の平均額を調べたそうです。参拝者数で割ると、一人あたりなんと6円。世界平和まで願って6円では、すこし気が引けるような、思わず笑ってしまうような数ですが、それも「願わずにはいられない」そんな気持ちが人間らしく感じます。

ただ、仏教では「願い」とは、単に希望を託すものではなく、「どう生きたいか」という問い直しの場でもあります。願ったから叶うわけでもないし、願わなかったから不幸になるわけでもない。けれど、何かを願うことで、自分の心の奥にある本音や、大切にしたいことに気づかされる。
そんなふうに、願いは自分自身と向き合うきっかけになるのかもしれません。
そしてもう一つ、大事なことがあります。それは、「私たちは、自分の願いだけで生きているわけではない」ということ。
ふとした時に思い出す、誰かの声や表情。うまくいかなかった日に寄り添ってくれた言葉。それらはみんな、私のためを思ってくれた「願い」のようなものだったと思うのです。

自分が願う以前に、実はもう誰かの願いの中に私たちは生きている。そのことに気づけた時、ちょっと心がほどけるような気がします。何かをがんばろうと思える時、心の底では誰かの思いが背中を押してくれていた、そんなこともあるのではないでしょうか。
「他力本願」という言葉があります。今では「他人任せ」と勘違いされる事も多いですが、本来は「誰か(阿弥陀さん)の願いに支えられて生きている自分に気づくこと」。自分だけの努力でなんとかしようと頑張りすぎる私たちに、「ひとりじゃないんだよ」と語りかけてくれる仏教の言葉です。
年のはじめ、願いごとを一つ思い浮かべると、誰かの願いが自分に届いていたことにも、そっと耳を澄ませてみませんか。


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投稿日:2025年12月1日

No.480 2025年12月号

投稿日:2025年12月1日

No.480-2025年12月号

共苦

共苦


朝晩の冷え込みが厳しくなり「寒いね」と誰かと交わす一言が、どこか心をほっとさせてくれる季節です。
でも不思議なもので、同じ寒さの中にいても、その感じ方は人それぞれです。
たとえば寝室の空調をめぐって、家族のあいだで小さな攻防が繰り広げられるご家庭も少なくないでしょう。

すぐに暖房を入れたくなる寒がりもいれば、「まだ早い」と言って真冬でも平気な顔の人もいる。暖房をつければ「暑い!」と文句が出て、逆に窓を開ければ、布団にくるまって震える人もいる。
同じ空間にいても、これだけ体感が違うのかと驚かされます。

同じ気温もこれだけ感じ方が違うのかと驚かされます。
けれど考えてみれば、温度だけの話ではありません。
私たちが日々向き合っている悩みや苦しみも、同じように“感じ方”には個人差があります。
たとえば、人前で話すのが苦手な人にとっては、朝礼のスピーチが一日中憂うつの種になる。
一方で、同じ場面を「楽しい」と感じる人もいます。同じ出来事でも、心の温度差はずいぶんあるものです。

大切なのは、自分の物差しで人を測らないこと。
「寒いなら我慢しなよ」「それくらい気にしすぎだよ」と言ってしまいそうなときこそ、相手の感じ方に耳を傾けてみたいと思います。
わかろうとする心が、相手の安心につながることもあるのです。

仏教には「共苦(ぐうく)」という言葉があります。
たとえ自分が同じ経験をしていなくても、誰かの苦しみに少しでも心を寄せる。
その人の痛みや不安を、自分ごとのように受けとめようとする姿勢です。完全には分かり合えなくても、「分かろうとする」ことに、優しさと暖かさがあるように思います。

寒さの中でこそ、人のぬくもりが身にしみます。
「寒いね」に「ほんとだね」と返せる関係が、ありがたく思えるこの頃。
今年の冬も、そんなささやかなぬくもりや、寄り添う心を忘れずに、あたたかく過ごしていきたいものです。
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十一・十二月の予定
はぐくみの鐘
 十二月三十一日(水) 午後八時より
  ※お蕎麦お雑煮をご用意しています。
正月休み
  ※月参り等は一月六日までお休みさせて頂いております。
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投稿日:2025年11月1日

No.479 2025年11月号

投稿日:2025年11月1日

No.479-2025年11月号

余白

余白


気がつけば、今年もあと2ヶ月。
年末に向けて、予定も気持ちも、どこか落ち着かなくなってきます。
「今年のうちに」と、あれこれ詰め込んで、手帳もスケジュールもいっぱいに。
でも、そんな時こそ「余白」が大切なんだなと思います。

何も入れない日や、ちょっと寄り道できる5分のゆとり。それだけで、心の余裕はまるで変わってきます。
むしろ、そういう余白がある日のほうが、「いい一日だったな」と感じたりもします。
思い返してみても、記憶に残っている日は、案外そんな日だったりします。

「間抜け」という言葉がありますよね。
もともとは音楽や芝居で「間(ま)」が抜けてリズムが崩れることを意味していました。
そこから転じて、考えが足りない、抜かりがあることを指すようになったそうです。
つまり、「間」は本来、物事をうまく運ぶために必要な『リズム』なんです。
間がないと、調子が崩れてしまいます。心も同じで、余白のない生活は、少しのことで崩れやすくなります。

最近は効率化が求められます。
もちろんそれは大切なことで、私自身も効率を上げて時間をつくり、余裕を持つことを意識しています。
でも、せっかく生まれたその余裕の時間に、また新たな予定を詰め込んだり、効率化ばかりに労力が行き過ぎていては本末転倒ですよね。
効率化の目的は、さらに忙しくする事ではなく、余白を持つための手段でしかありません。
何もしない時間を、ただぼーっと過ごす。予定にない風景に足を止める。
そんな「間」が、整ったリズムを生み出してくれる。つまりそれは、ただの『間』じゃなくて、自分を整えるための「余白」といえます。

せわしない季節だからこそ、効率よく動きつつも、その先にある『余裕』を、ちゃんと感じ取れる時間をつくっておきたいですね。
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十一・十二月の予定
報恩講
 十月二十七日(月)午後二時より
   二十八日(火)午後二時より
    ※園児参拝二十八日
はぐくみの鐘
 十二月三十一日(水) 午後八時より
  ※お蕎麦お雑煮をご用意しています。
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