道教寺報DOKYOJI REPORT
投稿日:2026年7月1日
No.487 2026年7月号
投稿日:2026年7月1日
No.487-2026年7月号
忘
大切な人を亡くした時、深い悲しみに包まれます。
葬儀が終わり、しばらくは涙が止まらない日が続くこともあるでしょう。
でも、日常を過ごしているうちに、少しずつ、その悲しみが薄れていきます。
仕事に行き、ご飯を作り、誰かと笑い合う。そんな毎日を重ねるうちに、気づけば悲しみが遠くなっている。そんな自分に気づいて、驚くことがあります。
「もう平気になっている」自分は薄情なんかな、って思ってしまったことがあります。
あれだけ大切だった人のこと、いつの間にか普通に過ごせるようになっている。
それでいいんかなぁ、忘れてしまったんかなぁ、と。
ですが、忘れたわけではないのだと思います。
記憶には、すぐに引き出せる記憶と、奥にしまわれていて簡単には出てこない記憶があるそうです。
よく言う記憶喪失でなくなるのは前者の方で、後者は取り出しにくくなっているだけで、ちゃんとそこに存在しているといいます。悲しみも同じで、表に出てこなくなっただけで、消えてしまったわけではないそうです。
仏教に「阿頼耶識(あらやしき)」という言葉があります。
経験したこと出会った人の縁は、すべて種のように、心の奥深くに蓄えられている考え方です。
普段の生活では忘れていても、本当に大切な種は、ちゃんと残っているそうです。
何かのきっかけに、ふっとその人のことを思い出すのも、その種が芽を出しているからなのかもしれません。
誕生日が近づいた時や、ふと似た景色を見た時に涙が出るのも、その種が静かに息をしている証なのかもしれません。
だから、悲しみが薄れていっても、大丈夫なのかもしれません。
忘れることは、その人を失うことではなく、心の奥にちゃんと抱えたまま、今を生きていくということなのだと思います。
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七月・八月の予定
お盆会
八月十四日(金) 勤行 午後五時より
灰供養
八月十五日(土) 受付 午後四時半より
勤行 午後五時より
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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dokyoji.gram
投稿日:2026年6月1日
No.486 2026年6月号
投稿日:2026年6月1日
No.486-2026年6月号
運
「あの人、なんで運がいいんやろ」
そう思ったこと、ありませんか。
良い話が舞い込んでくる人、ちょうどいいタイミングで助けてもらえる人、なんとなくいつも上手いく人。
不思議と、そんな人はどこにでもいるものです。
そして少し羨ましくて、自分はなんで…と思ってしまうこともある。
こんなふうに考えたことがあります。
りんごが木から落ちてくる。それ自体は、確かに運です。自分でコントロールできるものじゃない。でも、りんごが落ちそうな木の近くにいるか、カゴを構えて待っているかどうか、それは自分で決められる。
運そのものは選べない。
でも、運が落ちてきたときに拾える場所にいること、ちゃんと受け取れる準備をしていること。
それが「運のいい人」と「そうでない人」の、案外シンプルな違いなのかもしれません。
では、カゴを構えるとは、具体的にどういうことでしょうか。
難しいことではないと思っています。挨拶をちゃんとする。
返事をする。頼まれたことを丁寧にやる。
してもらったことに「ありがとう」と伝える。
そういう日常のごく小さなことが、人との縁をつなぎ、運の通り道をつくっていくのではないかと思うのです。
逆に言えば、運が来ていても気づかない、受け取れないということも起きてくる。
カゴを持たずにいると、りんごはそのまま地面に落ちて、転がっていってしまいます。
仏教では「精進(しょうじん)」という言葉があります。
特別なことをするのではなく、今日できることをコツコツと続けること。その積み重ねが縁を育て、縁がやがて運になっていく。派手さはないけれど、そこに確かな道がある気がします。
運を待つのではなく、運が来たときに受け取れる自分でいる。
今日一日を振り返ってみてください。
カゴ、ちゃんと持っていましたか。
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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投稿日:2026年5月1日
No.485 2026年5月号
投稿日:2026年5月1日
No.485-2026年5月号
御陰様
先日お参りで「おかげさまで、無事に終わりました」と笑顔で声をかけていただきました。
私たちはごく自然にこの言葉を口にします。馴染み深い言葉ですが、その意味を考える機会は、案外少ないのかもしれません。
この言葉の語源は、文字通り「陰」という字にあります。
もともとは、身分の高い人の陰に控えて守ってもらうことや、神仏の慈悲という目に見えない守護を指していました。
それが転じて、今の私たちの日常を支えてくれている「目に見えないはたらき」への感謝を表す言葉になったそうです。
例えば、真夏の暑い日に、大きな木の下に入るとふっと涼しさを感じます。
あの木陰(こかげ)のような存在が、私たちの人生には無数にあります。
朝、蛇口をひねれば当たり前に出る水。
重い荷物を運んでくれる運転手さん。
夜道を照らす街灯。
私一人では出来ない事を、誰かが代わりに引き受けてくれている。
そんな「陰の力」の積み重ねが、私の今日を成り立たせています。
仏教では、こうした目に見えないつながりを「縁(えん)」と呼びます。
私たちはつい、自分の頑張りや目に見える成果ばかりに光を当てて、「自分がやった」という思いを強く持ちがちです。
しかし、どれほど光が強く当たっても、その反対側には必ず「陰」が存在します。光を支えているのは、実はその陰のほうなのです。
「おかげさま」の「さま」は、自分を支えてくれる全ての存在への敬意を表します。自分だけで生きていると思うと、心に余裕がなくなり他人に厳しくなります。けれど無数の「陰」に守られていると気づけた時、トゲトゲした心は不思議と丸くなり、安心感が広がる気がします。
今日という日を無事に終えられた背景に、どんな「陰」があったのか。
そんな「おかげさまの正体」を思い浮かべてみるだけで、また明日を少しだけ穏やかに迎えられる気がします。
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四月・五月の予定
永代経
五月二十四日(日)
午後二時より
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談
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投稿日:2026年4月1日
No.484 2026年4月号
投稿日:2026年4月1日
No.484-2026年4月号
正
「それは違うと思う」
口にすると場の空気が変わる言葉がある。
自分は正しいことを言っているのに、なぜか関係がぎくしゃくしてしまう。そんな経験はありませんか。
私たちは「正しさ」を拠り所にしています。しかしその正しさは、知らずに勝ち負けを生み出し、自分の意見が通れば正しく、それ以外は間違い。気づけば、意見の違いが、どちらが正しいかという争いへと変わっていきます。
会議の場で、軽く口にした一言。
その意見に反対されると、本当は、ただ『意見』が否定されただけなのに、どこか自分を否定されたように感じてしまいます。すると「いや違う」と言い返したくなり、相手もまた「いや違う」と返す。そうしていると、話は意見の良し悪しではなく、引けなくなった者同士のぶつかり合いに変わっていきます。
そんな時、関西でよく聞く「知らんけど」という言葉を思い出します。無責任なようでいて、自分の考えも絶対ではない、という余白を残す言葉です。この余白がある事で、言葉は争いではなく、やり取りとして流れていきます。
仏教では、自分の考えにとらわれることを執着(しゅうじゃく)といいます。
「正しさ」にしがみつくほど、自分も苦しくなり、相手をも縛ってしまうのでしょう。
さらに立場があると言葉の重みは増します。何気ない一言が絶対となり、引くことも変えることも難しくなる。
その姿を見ていると「正しさ」に縛られる苦しさを感じるばかりです。
もしかすると私たちは「正しいかどうか」という枠の中で物事を見過ぎているのかもしれません。
その枠を少し外してみると、そこにはただ「違い」があるだけの世界が広がっています。
正しさを求め続けるのではなく、そこから少し離れてみる。
そのとき初めて、人とも自分とも、少し楽に向き合えるのかもしれません。
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四月・五月の予定
永代経
五月二十四日(日)
午後二時より
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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』
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投稿日:2026年3月1日
No.483 2026年3月号
投稿日:2026年3月1日
No.483-2026年3月号
途
人生は、いつも途中です。
完成したと思った次の瞬間、また迷いが生まれる。落ち着いたはずなのに、心は揺れ、選び直しながら進んでいきます。
私たちは常に、途上の存在です。
最近、AIが人間のように文章を書き、会話をし、絵まで描く時代になりました。
しかし、その仕組みは意外に素朴です。昔ながらのプログラムは、「こうなったらこうする」と人が細かく道順を決めていくものでした。同じ条件なら必ず同じ答えにたどり着く。「1+1=2」の世界です。正確ですが、想定外には弱い。2以外は誤り、と切り捨てる世界です。
ところが今のAIは違います。膨大なデータから、「この流れなら次は何が一番らしいか」を確率で選びます。
絶対の正解を知っているわけではない。外れも含めながら、少しずつ精度を上げていく。完璧ではなく、揺らぎを前提にした仕組みです。
実は、私たちにも似ています。
これまでの経験から「たぶんこうだろう」と判断しながら生きている。言い換えれば、経験則という確率の中を歩いている存在です。
けれど、その経験はしばしば外れます。思い込みで人を傷つけ、間違いを重ねる。
私たちは「1+1=2」にならないこともある。1に届かないときもあれば、3になってしまうこともある。それが人間です。
浄土真宗では、煩悩(ぼんのう)を抱えた凡夫(ぼんぶ)のまま救われる、と説きます。自分の計算が狂い、自分の経験が崩れる、そのただ中で、他力(たりき)に遇(あ)う。完璧だからではない。
揺らぐ存在だからこそ、見捨てられないという教えです。
人生は完成図ではありません。いつも「途」の上。
揺れながら、迷いながら、それでも歩みは止まりません。
きっちり2にならなくていい。
1にも3にもなりながら、それでも2を目指し前を向く。
未完成であるということは、まだ続きがあるということ。
その続きを歩めること自体が、尊いのだと思います。
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