真宗 大谷派 川勝山 道教寺

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道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2024年6月1日

No.462 2024年6月号

投稿日:2024年6月1日

No.462-2024年6月号

無量

無量

先日、興味深い話を耳にしました。
それは人間関係を上下で捉えるのではなく、平面で捉えるという考え方です。
私たちはしばしば、友達が多い人や自分より豊かな生活をしている人、職場の先輩や後輩を見て、自分と他人を比較しがちです。
この人は自分より上だと思うと、自信を失ったり、恐れを感じたり、時には嫉妬してしまったりすることがあります。
しかし、人と人との関係を上下ではなく、平面で捉えるとどうでしょうか。
人には上下の違いはなく、私たちは皆、同じ平面上で、それぞれの道を進んでいるのです。
そう考えると、自分と他人を比較することなく、それぞれが自分の道を歩んでいるだけだと気付くことができます。

ここで、浄土真宗の教えに触れます。
阿弥陀如来は「無量寿如来」とも呼ばれ、「無量」という言葉には「量ることの無い」という意味があります。
この「無量」は、私たちの命や価値は他人と比べる必要なく、それぞれが尊く価値あることを表します。
「量る」というのは、比べるという意味で、つい人と比較しがちな私たちの生き方から離れた阿弥陀如来の働きを表しています。

私たちの人生も本来は「無量」であり、誰一人として他と比較することはできません。
それぞれがそれぞれの目的地に向かって進んでおり、たとえ同じ事をしても、全く同じ速さで、全く同じルートを進むことはあり得ません。
私たちは人生の出発点も目的地も、それぞれ違っているのです。進み具合が違っていて当然です。

もし同じような道を一緒に歩んでいるのであれば、それは比べる対象ではなく、同じ道を行く仲間だと捉えることができます。
そう考えると、この人より上だ、とか下だ、とか考える必要はなくなり、ただ今少し先を行っている人だと思えます。
そうすると、先行く人に、素直に教えを乞うことができるし、後から続く人に手を差し伸べることも出来ます。

私自身、つい他人と自分を比較して勝手に劣等感を感じてしまうことがありますが、この話を心に留め、劣等感や優越感に振り回されず、人と比べない生き方でありたいと願います。


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投稿日:2024年5月1日

No.461 2024年5月号

投稿日:2024年5月1日

No.461-2024年5月号

光明

光明

春が訪れ、朝日が早く昇り、カーテンの隙間から差す僅かな光でも、暗い部屋を瞬く間に明るく変えてくれます。
このように、私たちは太陽の光がなければ目の前の景色を認識できません。光がないと、この世の全てが暗闇に包まれ、何も見ることはできません。また、世界のすべてのものは、光を受けて初めて周りに認識されるのです。

それは私たちの物の見方も同じです。
他人の欠点ばかり目についたり、自己の姿は見えてなかったり、なかなか物事を正しく認識するのは難しいです。
このように誤った見方をしてしまう私たちに、阿弥陀如来は、無碍(むげ)の光として私たちに正しい道を照らし示します。
無碍光如来、すなわち何物にも妨げられることなく照らす光として、私たちの道を明るく照らし出してくれる存在であるそうです。

先代住職による道教寺報の226号「夜明け」では、親鸞聖人とその弟子たちのやり取りが引用されています。
この寺報で、「太陽は夜明けの時間に昇るのではなく、太陽が昇るから夜が明ける」と親鸞聖人は述べています。
これは、私たちが時間によって太陽が昇ると感じる視点に疑問を投げかけます。

親鸞聖人は弟子に尋ねました、
「夜明けの時間だから太陽が昇るのか、それとも太陽が昇るから夜明けなのか?」と。
弟子が「夜明けの時間だから夜が明けるのでしょう」と答えたところ、親鸞聖人は「いいえ、私たちは太陽が出るからこそ、夜明けを迎えることができるのです」と説明しました。

私たちは自分の目線でしか物事を考えることができません。
しかし、当たり前のように決まった時間に昇る太陽があるから、夜明けが訪れるという大切なことも、忘れてしまいがちです。

私たちは、自分は正しい、間違っていないと思いがちですが、自ら光を発する事が出来ないように、正しく物事を見る事は出来ません。真理を照らす光(仏法)の働きに照らされて、自分が正しいという思い込みを離れることができれば、無明の闇を歩く私たちに、一筋に道導として道を照らしてくれると教えてくれています。

五月・六月の予定

 永代経
  五月二十六日 午後二時より


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投稿日:2024年4月1日

No.460 2024年4月号

投稿日:2024年4月1日

No.460-2024年4月号

むかわり

むかわり

故人が亡くなって一年目は、一周忌と呼びますが、二年目からは三回忌というのはなぜか、ご存知でしょうか?
それは、三回忌などは臨終の日を一度目の命日と数えるという、習わしからきているそうです。

つまり、
亡くなったその日(ゼロ年目)が
一回目の命日「一回忌」

一周忌にあたる年(一年目)が
二回目の命日「二回忌」

亡くなって二年目が
三回目の命日「三回忌」

というような意味合いで、一回忌と二回忌は葬儀と一周忌があるので、三回忌から執り行うので、一周忌のよく年が三回忌という、少し違和感を感じる形になっています。

では、なぜ一周忌は亡くなった日から一年たった時に行うのでしょうか。
その意味は一周忌の別名が「むかわり」と呼ばれることにも関連しています。

「むかわり」という言葉は、一周忌を指す地域の言葉ですが、その音の由来としては、元来「向かう」とか「身変わり」といった言葉からきているとされています。
身変わり、身が変わる。つまり、新しい命に生まれ変わるという意味です。

一般的な習わしで、亡くなってから、7日毎に7回の審判を受ける七日七日(なのかなのか)という、49日(しじゅうくにち)・満中陰を経て新しい命に転生するとされます。

新しい命として、お腹にいる期間310日と49日を併せて359日。
旧暦では一年が360日なので、ちょうど一年周ったその日が、人が亡くなって、新しい命に転生し、母体から生まれ誕生するその日にあたるので、一周忌のことを身変わり「むかわり」と呼ばれるようになったそうです。だから、一周忌は三回忌等と異なり、新しい命として誕生し、健やかな人生の出発を願う、そんな意味合いがあるのかもしれません。

浄土真宗では、死後は極楽浄土に生まれるという教えで、追善法要に否定的な側面もありますが、習わしには、こんな人の思いや願いが込められている事を知るのも大切だと感じます。

四月・五月の予定
 納骨堂 内覧会
  四月十四日 午後二時〜五時

 永代経
  五月二十六日 午後二時より


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投稿日:2024年3月1日

No.459 2024年3月号

投稿日:2024年3月1日

No.459-2024年3月号

宮商和して自然なり

宮商和して自然なり

皆さんは、どんな人とでもすぐに仲良くなれますか?

初めから誰とでも理解し合えることができれば素晴らしいことですが、現実はそう簡単ではないものです。人との関わりの中で、相性が合わないと感じる人や、苦手意識を持ってしまう人もいることでしょう。

親鸞聖人の和讃に、「宮(きゅう)商(しょう)和(わ)して自然(じねん)なり」という教えがあります。
この言葉は、雅楽やお経の節における東洋音階の中で、特に「宮」と「商」という二つの音階を指します。
これらは西洋音階で言うところのドとレのような関係で、隣り合う音階であり、同時に鳴らすと不協和音として聞こえるとされる音です。

しかし、仏さまの世界では、このような不協和音でも調和し、美しい音楽を奏でるとされています。
つまり、異なる音階が衝突することなく、自然と互いに調和していく世界であると。

私たちも、それぞれ異なる「音」を持っていますよね。自分の音ばかり主張しあうと衝突し時には喧嘩にもつながります。しかし、自分ばかりでなく相手の「音」にも耳を傾け、理解しようとすれば、それぞれの音が調和はされ、良い人間関係へと繋がります。

それは、真宗大谷派のお勤めの様子にも見ることができます。
例えば、正信偈をお勤めする際、西洋音楽のように決まった音程で一律に読むのではなく、各人が自由に声を発声します。
大きな声もあれば、小さな声もあり、高い声も低い声もあります。
一見、不調和音に思えるかもしれませんが、お勤めの中で、これらの声は自然と調和し、一つの味わい深い唱和となります。
お勤めの指導をする先生が、同じ人達で同じお勤めをしても、毎回異なり調和し、それが味わい深いと仰っていました。
これは、一人ひとりが、周りの声を聞きながら、声を出そうとする、そんな姿勢から生まれてきています。

この教えは、自分だけの声を主張するのではなく、相手の声に耳を傾け、共に調和を図ることの大切さを教えてくれます。
「人の話を聞きなさい」そんな、子どもの頃に良く言われた言葉ですが、相手の話を遮らず、話を聞くことは意外と難しくて、忘れてしまいがちです。
自らの音と相手の音。その調和を図るために聞くことの大切さを思い出しました。


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投稿日:2024年2月1日

No.458 2024年2月号

投稿日:2024年2月1日

No.458-2024年2月号

作法

作法

よくお通夜、葬儀、法事の際の「お焼香」の作法についてご質問されることがあります。
葬儀に参列する際、前の人の動きを見ながら、どのように振る舞うべきか不安を感じる方もいるでしょう。
私自身も初めて一般に参列した際は、礼を欠いてないか、いろいろと心配ばかりしていました。

浄土真宗、真宗大谷派(東)では、お焼香は2回行います。
額には押し頂いたりはしません。お焼香の起源に関しては、お釈迦様が生存中、インドでお説法を行う際に、お話に集中できるよう弟子たちが交代で香りを焚いていたという説もあります。
葬儀や法要では、お釈迦様のお説教(お経)を僧侶が代わりに読み上げ、参列者は弟子のようにお焼香をすることで、法要に参加し、お経を頂きます。ですから、お焼香よりも、お経を聞くことの方が重要とされるわけですね。

とはいえ、実際どうしたらいいのか、気になりますよね。
基本的には、所属する宗派の作法に従うべきですが、自身の宗派が不明な場合は自分の良いと思う作法を取り入れても良いと思います。また、他宗の方が多い場面では、その場に合わせる柔軟性も大切だと思います。作法は挨拶と同じく、形式は大切ですが、もっと重要なのはその心です。

たとえば、言葉や文化が異なる国でも、感謝の気持ちは共通しています。
「サンキュー」や「謝謝(シェイシェイ)」など、国や文化によって、感謝の表現方法がある様に、作法においても相手や状況に合わせた必要かと思います。
決して作法が大切でないというわけではありませんが、形式に固執しすぎることもないと思います。
自分の国の言葉でとても丁寧な「ありがとう」を言うのも大切ですが、文化や習慣が全く違う人には、つたない「サンキュー」でも、そちらの方が気持ちが伝わる場合もあります。

真宗の作法とは異なりますが、個人的にはお焼香を押し頂く姿は、丁寧に故人を偲んでいるように感じる印象を受けます。
作法に対する不安や疑問を持つこともあるかと思いますが、大切なのは気持ちの部分だと思います。
形式に捉われ、作法ばかり気にするのではなく、肩の力を抜いて、法要に参加し、故人を偲び、仏法に耳を傾けて頂ければ幸いです。


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