真宗 大谷派 川勝山 道教寺

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道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2025年4月1日

No.472 2025年4月号

投稿日:2025年4月1日

No.472-2025年4月号

魂

「仏壇を新しくしたので、おたまし入れをお願いします」「お墓じまいをしたいので、おたまし抜きをお願いします」そんなご依頼をよくお聞きします。
仏壇を新しくしたり、お墓を建て直したりする際、「魂を移す」儀式が必要だと考える方が多いのでしょう。

しかし、浄土真宗では「亡くなった方の魂が仏壇に宿る」とは考えません。
亡くなった方は、阿弥陀如来(あみだにょらい)のはたらきによって、すぐに極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生し、仏となられると説きます。つまり「ここに魂がある」と特定の場所を示すことはなく、お仏壇はあくまで手を合わせ、ご縁を感じる場です。
そもそも仏教では、魂があるとも、ないとも言いません。それを決めることで、かえって私たちの心が「ある」「ない」という考えにとらわれてしまうからです。大切なのは亡くなった方がどこへ行ったのかを考えるのではなく、「私たちは今をどう生きるのか」ということです。

では、新しい仏壇を迎える時、古い仏壇を手放す時には、どのような気持ちで向き合えばよいのでしょうか。新しい仏壇を迎える時、それは「新たな縁の場」を整えるということです。
仏壇は、単なる家具ではなく、そこに向かい合うことで「亡き方を偲び自分自身を見つめる場」となります。新しい仏壇に向かい手を合わせることは、新たな気持ちで仏様の教えに耳を傾ける機会でもあります。
一方、古い仏壇を手放す時も、それは「お別れ」ではなく「節目のご挨拶」です。長い間、ご先祖と向き合う場として大切にしてきたことへ感謝を込め、「ありがとうございました」と手を合わせる。その心があれば、儀式の形にとらわれる必要はありません。

浄土真宗では、故人の行く末を案じ供養するのではなく、阿弥陀如来に出遇い、仏法に耳を傾けることが大切にされます。
だからこそ、法要は故人の冥福を祈る場ではなく、教えに耳を傾ける場です。
そこに集う人々と語らい、手を合わせることで、亡き人との縁を感じ、今を生きる私たちの歩みを振り返る機会となるのです。
新しい仏壇も、古い仏壇も、それに向き合う「私たちの心」を映す鏡なのかもしれません。



四月・五月の予定
永代経
 五月二十五日(日)
  午後二時より


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投稿日:2025年3月1日

No.471 2025年3月号

投稿日:2025年3月1日

No.471-2025年3月号

縁

「縁起(えんぎ)が悪いなあ」とか「運が悪い」と、ついぼやいてしまう事はありませんか?
朝から忘れ物をしたり、電車が遅れたり。そんな時、「なんだか今日はツイてない」「縁起が悪い日だ」と思いがちです。逆に、いい時は「ご縁がある」「縁起がいい」なんて言いますよね。でも、それは自分の都合次第ではないでしょうか?

仏教で「縁起」とは、「すべての物事は互いに関わり合い成り立っている」と教えます。何かが起こる事は、無数の条件(縁)が重なっている。だから、単純に「縁起が良い・悪い」なんて、に決められる事ではありません。

例えば雨の日を考えてみましょう。朝、雨が降ると「せっかくの休みなのに」とがっかりするかもしれません。
でも、その雨のおかげで、畑の作物は育ち、川の水は満たされ、動物や植物たちは潤っています。つまり、雨そのものには良し悪しはなく、それをどう受け取るかは、自分の立場や状況次第なのです。

仏教では、この「縁(えん)」を二つに大別します。一つは「与力縁(よりきえん)」これは、物事を成り立たせるために積極的に働きかける条件です。例えば、花を咲かせる為に、種を蒔き、水をやり、肥料を与えること。これらはすべて、花を咲かせるための「与力縁」です。

もう一つは「無障縁(むしょうえん)」これは、物事の進行を妨げる要因が無い事を指します。花が咲くためには、台風が来ないこと、害虫に食べられないこと、人に踏みつけられないことも大切です。目に見えない「起こらなかったこと」もまた、大きな縁の一つなのです。

私たちの人生も同じです。私がここにいるのは、親がいて、社会があり、人との出会いという「与力縁」と、自身の命を落とすような不幸な事件や事故に巻き込まれなかった「無障縁」があり、自分では気づかない誰かの支えや、さまざまな出来事が重なり、今があるのです。

親鸞聖人は「遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ」と仰っています。今生きている事も、今出会っている人も、全て遥か昔からの縁が積み重なった結果です。たとえ今は「縁起が悪い」と思う事も、時間が経てば、大切なご縁と思う時も来るかもしれません。そう思うと、どんな日も少しだけ前向きに過ごせる気がしますね。


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投稿日:2025年2月1日

No.470 2025年2月号

投稿日:2025年2月1日

No.470-2025年2月号

慢

高慢(こうまん)という言葉は、皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
これは、自分を他人と比べて、自分の方が優れていると思い込んでいる態度や心の状態をいいます。
「あの人より自分は優れている」と誇示するような振る舞いに、嫌な印象を抱くこともあるでしょう。
しかし、仏教の教えでは、「慢(まん)」という言葉が単に「高慢」だけを指すのではなく、さらに広い意味を持っていることをご存じでしょうか。
実は「高慢」の他にも、「卑下慢(ひげまん)」や「同等慢(どうとうまん)」という心の働きを表す言葉があります。
「卑下慢」は、自分を他人より劣っていると感じる心の状態、「同等慢」は、自分は他人と同じだと主張する心の状態です。
そして、これらすべての根本には「自分を他人と比べて測る」という「慢」の心が働いているのです。

「慢」という心の働きは、私たちの日常に深く根ざし、他人より優れている、あるいは劣っていると、無意識に自分を測るという行為を繰り返しています。この行為が、私たちに喜びや不安、怒りや落ち込みの感情を生み出します。
比べること自体は、決して悪いわけではありません。
他者を目標にして努力することもあれば、自分の位置を知ることで前進のきっかけを掴むこともあります。
ただ、他人を基準にして比べ続けると、どこまで行っても満足することはありません。
上を見れば際限なく上がいるし、その物差しもまた、自分の主観や偏見に左右されており、決して公平とは言えません。

大切なのは、他人を基準にせず、自分を基準とすることです。昨日の自分と比べ、一歩でも進むことができたか、その小さな一歩が、未来の自分を作り出す原動力となります。

上ばかりを見ていると足元につまずき、下ばかりを見ていると頭をぶつけてしまうものです。
他人と比べるのではなく、しっかりと前を向いて、自分と向き合いながら進むことが何より大切です。
昨日よりも少しでも前に進んだ自分を認め、未来に向かって歩み続けましょう。
その姿勢こそが、迷いや不安を乗り越え、より良い自分を育む道となるはずです。


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投稿日:2025年1月1日

No.469 2025年1月号

投稿日:2025年1月1日

No.469-2025年1月号

浄土三部経

浄土三部経

新年あけましておめでとうございます。
気温差の激しい日が続きますが、皆様におかれましては、健やかに新年をお迎えのことと存じます。
昨年中は温かいご支援を賜り心より感謝申し上げます。本年も変わらぬご愛顧賜りますようお願い申し上げます。
皆様にとって、今年も健やかで穏やかとなりますよう祈念致します。

『浄土三部経』
浄土真宗のお経をご存知でしょうか?帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)で始まる正信偈(しょうしんげ)をお経と思われる方もいますが、正しくは親鸞聖人が作られた詩で、お経ではありません。
お経とはお釈迦さまが説かれた教えを記したものです。では、浄土真宗が大切にする「お釈迦さまのお経」とは何でしょうか?
それが、「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」と呼ばれる三つのお経です。
以下に簡単にご紹介します。
『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』
略して「大経(だいきょう)」とも呼ばれ、阿弥陀仏(あみだぶつ)が修行者であった頃に立てられた「本願」が詳しく説かれています。お釈迦さまは、このお経について「私がこの世に生まれてきた目的は、阿弥陀仏の本願を説くため」と述べられています。この本願こそが、浄土真宗の教えの根本です。

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』
「観経(かんぎょう)」とも呼ばれ、暴虐な息子・阿闍世(あじゃせ)太子によって牢に閉じ込められた韋提希(いだいけ)夫人を救う為、お釈迦さまが説かれたもので、阿弥陀仏の本願を聞いた夫人は、絶望から希望へと心を転じました。このお経は、「心の向かう先を変えることで人生が変わる」という教えを示しています。

『阿弥陀経(あみだきょう)』
略して「小経(しょうきょう)」とも呼ばれ、極楽浄土の美しい様子が描かれています。蓮華(れんげ)の咲き誇る浄土や清らかな池の描写が印象的です。また、このお経は「無問自説(むもんじせつ)」として知られています。他のお経は、誰かが質問し、それにお釈迦さまが答える形で始まりますが、『阿弥陀経』は違います。誰も問うことなく、お釈迦さまが自ら語り始められました。これは、「これだけは説いておかなければならない」とお釈迦さまが特に重要視された教えだったからです。

これらを三部経と呼び法要等で勤めます。


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投稿日:2024年12月1日

No.468 2024年12月号

投稿日:2024年12月1日

No.468-2024年12月号

塵を払い、垢を除かん

塵を払い、垢を除かん

年の瀬となり、大掃除の季節になりました。新年を心地よく迎える為に、普段以上に念入りに掃除をする方も多いのではないでしょうか。家の中が整うと心も気持ちもすっきりしますよね。

掃除といえば、お釈迦様のお弟子・周利槃特(しゅりはんどく)の話を思い出します。彼はとても物覚えが悪く、なんと自分の名前さえも覚えられなかったと言います。周囲の弟子たちからも笑われ、恥ずかしい思いをした彼は、「自分は仏弟子としての資格がない」と教団を去ろうとしました。その時、お釈迦様は彼に一本の箒(ほうき)を渡し、「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除かん」と唱えながら掃除をしなさい、と勧められます。周利槃特は言われた通り、毎日「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃除を続けました。

掃除を続ける彼はある日、掃除したばかりの場所を子どもたちが汚してしまい、彼は思わず怒りを爆発させてしまいました。その瞬間、彼はハッと気づきます。「お釈迦様がおっしゃる塵や垢は、外にある物だけでなく、私の心の中にも怒りや欲望、人に認められたい、そんな執着が積もっていたんだ」と。この気付きから、掃除はただの作業から自分の心の掃除へ変わりました。そして長い年月をかけ、周利槃特は阿羅漢(あらかん)という悟りの境地に達したのです。

掃除という行いは、目に見えるものをきれいにするだけでなく、自分の内面を見つめる時間にもなります。例えば、どんなに綺麗にしたと思っても、またすぐに汚れが溜まるように、私たちの心も気づかぬうちに煩悩(ぼんのう)や迷いで曇っていきます。それらを放置せず、気づくたびに払い清める。その繰り返しが、心を整え、日々を心地よく生きることにつながるのではないでしょうか。

今年の大掃除は、周利槃特のように「塵を払い、垢を除かん」と心で唱えながら取り組んでみてはいかがでしょう。きっと、掃除をしながら新しい発見や気づきが得られるかもしれません。そしてきれいな空間と清々しい心で、新しい年を迎えられますように。


十二月・一月の予定
はぐくみの鐘
 十二月三十一日(火)
  午後八時より
   ※お蕎麦お雑煮をご用意しています。


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