真宗 大谷派 川勝山 道教寺

真宗 大谷派 川勝山 道教寺

道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2024年3月1日

No.459 2024年3月号

投稿日:2024年3月1日

No.459-2024年3月号

宮商和して自然なり

宮商和して自然なり

皆さんは、どんな人とでもすぐに仲良くなれますか?

初めから誰とでも理解し合えることができれば素晴らしいことですが、現実はそう簡単ではないものです。人との関わりの中で、相性が合わないと感じる人や、苦手意識を持ってしまう人もいることでしょう。

親鸞聖人の和讃に、「宮(きゅう)商(しょう)和(わ)して自然(じねん)なり」という教えがあります。
この言葉は、雅楽やお経の節における東洋音階の中で、特に「宮」と「商」という二つの音階を指します。
これらは西洋音階で言うところのドとレのような関係で、隣り合う音階であり、同時に鳴らすと不協和音として聞こえるとされる音です。

しかし、仏さまの世界では、このような不協和音でも調和し、美しい音楽を奏でるとされています。
つまり、異なる音階が衝突することなく、自然と互いに調和していく世界であると。

私たちも、それぞれ異なる「音」を持っていますよね。自分の音ばかり主張しあうと衝突し時には喧嘩にもつながります。しかし、自分ばかりでなく相手の「音」にも耳を傾け、理解しようとすれば、それぞれの音が調和はされ、良い人間関係へと繋がります。

それは、真宗大谷派のお勤めの様子にも見ることができます。
例えば、正信偈をお勤めする際、西洋音楽のように決まった音程で一律に読むのではなく、各人が自由に声を発声します。
大きな声もあれば、小さな声もあり、高い声も低い声もあります。
一見、不調和音に思えるかもしれませんが、お勤めの中で、これらの声は自然と調和し、一つの味わい深い唱和となります。
お勤めの指導をする先生が、同じ人達で同じお勤めをしても、毎回異なり調和し、それが味わい深いと仰っていました。
これは、一人ひとりが、周りの声を聞きながら、声を出そうとする、そんな姿勢から生まれてきています。

この教えは、自分だけの声を主張するのではなく、相手の声に耳を傾け、共に調和を図ることの大切さを教えてくれます。
「人の話を聞きなさい」そんな、子どもの頃に良く言われた言葉ですが、相手の話を遮らず、話を聞くことは意外と難しくて、忘れてしまいがちです。
自らの音と相手の音。その調和を図るために聞くことの大切さを思い出しました。


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



投稿日:2024年2月1日

No.458 2024年2月号

投稿日:2024年2月1日

No.458-2024年2月号

作法

作法

よくお通夜、葬儀、法事の際の「お焼香」の作法についてご質問されることがあります。
葬儀に参列する際、前の人の動きを見ながら、どのように振る舞うべきか不安を感じる方もいるでしょう。
私自身も初めて一般に参列した際は、礼を欠いてないか、いろいろと心配ばかりしていました。

浄土真宗、真宗大谷派(東)では、お焼香は2回行います。
額には押し頂いたりはしません。お焼香の起源に関しては、お釈迦様が生存中、インドでお説法を行う際に、お話に集中できるよう弟子たちが交代で香りを焚いていたという説もあります。
葬儀や法要では、お釈迦様のお説教(お経)を僧侶が代わりに読み上げ、参列者は弟子のようにお焼香をすることで、法要に参加し、お経を頂きます。ですから、お焼香よりも、お経を聞くことの方が重要とされるわけですね。

とはいえ、実際どうしたらいいのか、気になりますよね。
基本的には、所属する宗派の作法に従うべきですが、自身の宗派が不明な場合は自分の良いと思う作法を取り入れても良いと思います。また、他宗の方が多い場面では、その場に合わせる柔軟性も大切だと思います。作法は挨拶と同じく、形式は大切ですが、もっと重要なのはその心です。

たとえば、言葉や文化が異なる国でも、感謝の気持ちは共通しています。
「サンキュー」や「謝謝(シェイシェイ)」など、国や文化によって、感謝の表現方法がある様に、作法においても相手や状況に合わせた必要かと思います。
決して作法が大切でないというわけではありませんが、形式に固執しすぎることもないと思います。
自分の国の言葉でとても丁寧な「ありがとう」を言うのも大切ですが、文化や習慣が全く違う人には、つたない「サンキュー」でも、そちらの方が気持ちが伝わる場合もあります。

真宗の作法とは異なりますが、個人的にはお焼香を押し頂く姿は、丁寧に故人を偲んでいるように感じる印象を受けます。
作法に対する不安や疑問を持つこともあるかと思いますが、大切なのは気持ちの部分だと思います。
形式に捉われ、作法ばかり気にするのではなく、肩の力を抜いて、法要に参加し、故人を偲び、仏法に耳を傾けて頂ければ幸いです。


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



投稿日:2024年1月1日

No.457 2024年1月号

投稿日:2024年1月1日

No.457-2024年1月号

有相方便

有相方便

新年あけましておめでとうございます。

気温差の激しい今日この頃、皆様におかれましては、健やかに新年をお迎えのことと存じます。
昨年は、皆様からの温かいご支援を賜り、心より感謝申し上げます。本年も引き続き精進してまいる所存です。

新年が皆様にとって、健やかで、良い一年となりますよう、心からお祈り申し上げます。
何卒、昨年同様のご愛顧のほど、お願い申し上げます。今年もよろしくお願い致します。


「有相方便」とは仏教における教え(悟りや真実)、「無相」(形ないもの)を、理解しやすいたとえ話や比喩、あるいは仏像や絵画などの「有相」(形あるもの)で伝える手段を指します。

「嘘も方便」という言葉も、この「有相方便」をもじって出来た言葉であるといわれています。
しかし、「嘘やごまかしも、その人のためだったら良いよね」という使われ方をしますが、それは誤用とされています。

仏教における方便は、真実に導くための教えや手段で、嘘や欺きを指すものではありません。
例えば、経典に語られる神通力や超常の力は、当時の人々に、仏教の智慧を伝えるために用いられたたとえ話の方便といえます。

「真実」と「方便」は、「目的地」と「手段」の関係に似ていて、目的地まで電車や飛行機など様々な手段を選ぶように、私達は仏の智慧を悟るために方便を必要とします。目的地に対して様々な手段が有るように、真実と方便は対に存在します。

大切なのは真実だからと、方便を軽んじるべきではありません。
私たちは生まれながら、真実を生きているわけではないので、方便を通してしか、真実に触れることができないからです。

例えば故人を偲び、手を合わせることも方便のひとつです。
故人は浄土に生まれるので、仏壇には居ないから、手を合わせる意味が無いという考えもあるしれません。
しかし、手を合わせる事で、私達は自身の生き方や命の意味を深く考える機縁になっています。
そんな機縁がないと、日常で命に向き合う事は難しいでしょう。

方便は意味のない行為だと切り捨てるのは簡単ですが、そもそも人生に意味ある行為とは何でしょう。
私はそれを知らないので、今年も知る限りの方便を続け生きていくのでしょう。


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



投稿日:2023年12月1日

No.456 2023年12月号

投稿日:2023年12月1日

No.456-2023年12月号

人間

人間

あるお寺の掲示板に、ふと書かれていた言葉が目に止まりました。

「私を私たらしめているのは 私ではない」

一見すると、何を言っているのだろうと思う一文ですよね。私が私を作っているのではないのなら、一体何が私を形作っているのでしょうか。そんな当然の疑問が湧いてくるでしょう。

しかし、仏教では、「私」という自我は存在せず、一切は無我であると説きます。これもまた、難しい言葉ですよね。
でも、たしかに私たちはつい、「私」という何か常に確立した存在があると考えてしまいがちですが、実はそうではないという教えです。

私たちは、実はいろんな「私」を持っています。友人の前の私、職場での私、家族との私。それぞれ少しずつ違うのが、私たちですよね。人や環境、場所、その時々で私というものは常に変化します。
だから確固たる「私」という自我は存在せず、あらゆる要因(因や縁)で変化する、無我であると仏教では説かれています。

特に、人との関係が、大きく「私」に影響します。
その関係の数だけ、私があり、相手が存在するのでしょう。
この相手と自分の間にある関係性が「私」を形作っているともいえます。

ある先生が、「私たちは『人間』に生まれたのではなく、『人』の身に生まれ、人と人との『間』の「つながり」を通じて『人間』に成長していく」と言っていました。
私たちは、関係というつながりがあるからこそ、人間としての「いのち」として存在しているのだと。

そして、この「つながり」というのは、良くも悪くも、私たちから離れることはありません。
「人が亡くなって後に残るものは、手に入れたものではなく、与えたものである」という言葉があるとおり、私たちの寿命という「いのち」を終えても、その想いや願いというのは、縁ある人々の「つながり」の中に、確かに「いのち」として続いていくのでしょう。

十二月・一月の予定
  ※除夜の鐘は納骨堂の工事のため本年度は中止いたします。


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



投稿日:2023年11月1日

No.455 2023年11月号

投稿日:2023年11月1日

No.455-2023年11月号

分陀利華

分陀利華

正信偈には「是人名分陀利華(ぜにんみょうふんだりけ)」という一節があり、「この人を『分陀利華』と名づける」という意味があります。
この「分陀利華」は、インドの言葉の「プンダリーカ」を音写したもので、日本の言葉でいうと「蓮華」、つまり「蓮の花」を指しています。

仏教における「蓮華」は象徴的な意味があり、その純粋さと美しさから、数多くの寺院や仏教美術で用いられています。
特に私たち真宗門徒にとっては、阿弥陀さんが立っている足元の蓮華の花などが、親しみ深くよく見るのではないでしょうか。
仏教において、この蓮華を重要視するのは、蓮華が泥から生まれ、泥水を弾きながらも清浄に美しく咲くその姿にあります。
この姿は、世の中の苦しみや困難(泥)の中でも乗り越え、露を弾きながら生き生きと花を咲かせる仏教徒の生き方を反映していると言えるでしょう。

『維摩(ゆいま)経』に、「譬(たと)えば、高原の陸地には蓮華を生せず、卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)に乃ち此の華を生ずるが如し。」という蓮華の花と仏教徒の姿を比喩した一説があります。
蓮華が美しい高原ではなく、泥沼の中で生まれることから、私たち人間も煩悩や苦しみに満ちたこの世でこそ、真の智慧や悟りを開くことができると教えられています。
例えば、世間から離れた山奥で修行し、単に世の中の迷いや汚れを避けて生きるだけでは、人は真の悟りを得ることができないかもしれません。

煩悩や苦しみの中でこそ、人は自分自身を磨き上げ、仏の智慧を求めるべきだと仏教は教えています。
これは、泥の中の蓮華が示すように、困難な環境の中でこそ真の美しさや強さが培われるという教えです。
だからこそ、泥の中から力強く美しく咲く、そんな蓮の花の凛とした姿に、私たちは勇気をもらい、心を惹きつけられるのでしょう。

十一月・十二月の予定
 報恩講
  十一月十九日(日)午後二時より
     二十日(月)午後二時より
      ※園児参拝二十日
  ※除夜の鐘は納骨堂の工事のため本年度は中止いたします。


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



PAGE TOP