真宗 大谷派 川勝山 道教寺

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道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2024年4月1日

No.460 2024年4月号

投稿日:2024年4月1日

No.460-2024年4月号

むかわり

むかわり

故人が亡くなって一年目は、一周忌と呼びますが、二年目からは三回忌というのはなぜか、ご存知でしょうか?
それは、三回忌などは臨終の日を一度目の命日と数えるという、習わしからきているそうです。

つまり、
亡くなったその日(ゼロ年目)が
一回目の命日「一回忌」

一周忌にあたる年(一年目)が
二回目の命日「二回忌」

亡くなって二年目が
三回目の命日「三回忌」

というような意味合いで、一回忌と二回忌は葬儀と一周忌があるので、三回忌から執り行うので、一周忌のよく年が三回忌という、少し違和感を感じる形になっています。

では、なぜ一周忌は亡くなった日から一年たった時に行うのでしょうか。
その意味は一周忌の別名が「むかわり」と呼ばれることにも関連しています。

「むかわり」という言葉は、一周忌を指す地域の言葉ですが、その音の由来としては、元来「向かう」とか「身変わり」といった言葉からきているとされています。
身変わり、身が変わる。つまり、新しい命に生まれ変わるという意味です。

一般的な習わしで、亡くなってから、7日毎に7回の審判を受ける七日七日(なのかなのか)という、49日(しじゅうくにち)・満中陰を経て新しい命に転生するとされます。

新しい命として、お腹にいる期間310日と49日を併せて359日。
旧暦では一年が360日なので、ちょうど一年周ったその日が、人が亡くなって、新しい命に転生し、母体から生まれ誕生するその日にあたるので、一周忌のことを身変わり「むかわり」と呼ばれるようになったそうです。だから、一周忌は三回忌等と異なり、新しい命として誕生し、健やかな人生の出発を願う、そんな意味合いがあるのかもしれません。

浄土真宗では、死後は極楽浄土に生まれるという教えで、追善法要に否定的な側面もありますが、習わしには、こんな人の思いや願いが込められている事を知るのも大切だと感じます。

四月・五月の予定
 納骨堂 内覧会
  四月十四日 午後二時〜五時

 永代経
  五月二十六日 午後二時より


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投稿日:2024年3月1日

No.459 2024年3月号

投稿日:2024年3月1日

No.459-2024年3月号

宮商和して自然なり

宮商和して自然なり

皆さんは、どんな人とでもすぐに仲良くなれますか?

初めから誰とでも理解し合えることができれば素晴らしいことですが、現実はそう簡単ではないものです。人との関わりの中で、相性が合わないと感じる人や、苦手意識を持ってしまう人もいることでしょう。

親鸞聖人の和讃に、「宮(きゅう)商(しょう)和(わ)して自然(じねん)なり」という教えがあります。
この言葉は、雅楽やお経の節における東洋音階の中で、特に「宮」と「商」という二つの音階を指します。
これらは西洋音階で言うところのドとレのような関係で、隣り合う音階であり、同時に鳴らすと不協和音として聞こえるとされる音です。

しかし、仏さまの世界では、このような不協和音でも調和し、美しい音楽を奏でるとされています。
つまり、異なる音階が衝突することなく、自然と互いに調和していく世界であると。

私たちも、それぞれ異なる「音」を持っていますよね。自分の音ばかり主張しあうと衝突し時には喧嘩にもつながります。しかし、自分ばかりでなく相手の「音」にも耳を傾け、理解しようとすれば、それぞれの音が調和はされ、良い人間関係へと繋がります。

それは、真宗大谷派のお勤めの様子にも見ることができます。
例えば、正信偈をお勤めする際、西洋音楽のように決まった音程で一律に読むのではなく、各人が自由に声を発声します。
大きな声もあれば、小さな声もあり、高い声も低い声もあります。
一見、不調和音に思えるかもしれませんが、お勤めの中で、これらの声は自然と調和し、一つの味わい深い唱和となります。
お勤めの指導をする先生が、同じ人達で同じお勤めをしても、毎回異なり調和し、それが味わい深いと仰っていました。
これは、一人ひとりが、周りの声を聞きながら、声を出そうとする、そんな姿勢から生まれてきています。

この教えは、自分だけの声を主張するのではなく、相手の声に耳を傾け、共に調和を図ることの大切さを教えてくれます。
「人の話を聞きなさい」そんな、子どもの頃に良く言われた言葉ですが、相手の話を遮らず、話を聞くことは意外と難しくて、忘れてしまいがちです。
自らの音と相手の音。その調和を図るために聞くことの大切さを思い出しました。


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投稿日:2024年2月1日

No.458 2024年2月号

投稿日:2024年2月1日

No.458-2024年2月号

作法

作法

よくお通夜、葬儀、法事の際の「お焼香」の作法についてご質問されることがあります。
葬儀に参列する際、前の人の動きを見ながら、どのように振る舞うべきか不安を感じる方もいるでしょう。
私自身も初めて一般に参列した際は、礼を欠いてないか、いろいろと心配ばかりしていました。

浄土真宗、真宗大谷派(東)では、お焼香は2回行います。
額には押し頂いたりはしません。お焼香の起源に関しては、お釈迦様が生存中、インドでお説法を行う際に、お話に集中できるよう弟子たちが交代で香りを焚いていたという説もあります。
葬儀や法要では、お釈迦様のお説教(お経)を僧侶が代わりに読み上げ、参列者は弟子のようにお焼香をすることで、法要に参加し、お経を頂きます。ですから、お焼香よりも、お経を聞くことの方が重要とされるわけですね。

とはいえ、実際どうしたらいいのか、気になりますよね。
基本的には、所属する宗派の作法に従うべきですが、自身の宗派が不明な場合は自分の良いと思う作法を取り入れても良いと思います。また、他宗の方が多い場面では、その場に合わせる柔軟性も大切だと思います。作法は挨拶と同じく、形式は大切ですが、もっと重要なのはその心です。

たとえば、言葉や文化が異なる国でも、感謝の気持ちは共通しています。
「サンキュー」や「謝謝(シェイシェイ)」など、国や文化によって、感謝の表現方法がある様に、作法においても相手や状況に合わせた必要かと思います。
決して作法が大切でないというわけではありませんが、形式に固執しすぎることもないと思います。
自分の国の言葉でとても丁寧な「ありがとう」を言うのも大切ですが、文化や習慣が全く違う人には、つたない「サンキュー」でも、そちらの方が気持ちが伝わる場合もあります。

真宗の作法とは異なりますが、個人的にはお焼香を押し頂く姿は、丁寧に故人を偲んでいるように感じる印象を受けます。
作法に対する不安や疑問を持つこともあるかと思いますが、大切なのは気持ちの部分だと思います。
形式に捉われ、作法ばかり気にするのではなく、肩の力を抜いて、法要に参加し、故人を偲び、仏法に耳を傾けて頂ければ幸いです。


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投稿日:2024年1月1日

No.457 2024年1月号

投稿日:2024年1月1日

No.457-2024年1月号

有相方便

有相方便

新年あけましておめでとうございます。

気温差の激しい今日この頃、皆様におかれましては、健やかに新年をお迎えのことと存じます。
昨年は、皆様からの温かいご支援を賜り、心より感謝申し上げます。本年も引き続き精進してまいる所存です。

新年が皆様にとって、健やかで、良い一年となりますよう、心からお祈り申し上げます。
何卒、昨年同様のご愛顧のほど、お願い申し上げます。今年もよろしくお願い致します。


「有相方便」とは仏教における教え(悟りや真実)、「無相」(形ないもの)を、理解しやすいたとえ話や比喩、あるいは仏像や絵画などの「有相」(形あるもの)で伝える手段を指します。

「嘘も方便」という言葉も、この「有相方便」をもじって出来た言葉であるといわれています。
しかし、「嘘やごまかしも、その人のためだったら良いよね」という使われ方をしますが、それは誤用とされています。

仏教における方便は、真実に導くための教えや手段で、嘘や欺きを指すものではありません。
例えば、経典に語られる神通力や超常の力は、当時の人々に、仏教の智慧を伝えるために用いられたたとえ話の方便といえます。

「真実」と「方便」は、「目的地」と「手段」の関係に似ていて、目的地まで電車や飛行機など様々な手段を選ぶように、私達は仏の智慧を悟るために方便を必要とします。目的地に対して様々な手段が有るように、真実と方便は対に存在します。

大切なのは真実だからと、方便を軽んじるべきではありません。
私たちは生まれながら、真実を生きているわけではないので、方便を通してしか、真実に触れることができないからです。

例えば故人を偲び、手を合わせることも方便のひとつです。
故人は浄土に生まれるので、仏壇には居ないから、手を合わせる意味が無いという考えもあるしれません。
しかし、手を合わせる事で、私達は自身の生き方や命の意味を深く考える機縁になっています。
そんな機縁がないと、日常で命に向き合う事は難しいでしょう。

方便は意味のない行為だと切り捨てるのは簡単ですが、そもそも人生に意味ある行為とは何でしょう。
私はそれを知らないので、今年も知る限りの方便を続け生きていくのでしょう。


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投稿日:2023年12月1日

No.456 2023年12月号

投稿日:2023年12月1日

No.456-2023年12月号

人間

人間

あるお寺の掲示板に、ふと書かれていた言葉が目に止まりました。

「私を私たらしめているのは 私ではない」

一見すると、何を言っているのだろうと思う一文ですよね。私が私を作っているのではないのなら、一体何が私を形作っているのでしょうか。そんな当然の疑問が湧いてくるでしょう。

しかし、仏教では、「私」という自我は存在せず、一切は無我であると説きます。これもまた、難しい言葉ですよね。
でも、たしかに私たちはつい、「私」という何か常に確立した存在があると考えてしまいがちですが、実はそうではないという教えです。

私たちは、実はいろんな「私」を持っています。友人の前の私、職場での私、家族との私。それぞれ少しずつ違うのが、私たちですよね。人や環境、場所、その時々で私というものは常に変化します。
だから確固たる「私」という自我は存在せず、あらゆる要因(因や縁)で変化する、無我であると仏教では説かれています。

特に、人との関係が、大きく「私」に影響します。
その関係の数だけ、私があり、相手が存在するのでしょう。
この相手と自分の間にある関係性が「私」を形作っているともいえます。

ある先生が、「私たちは『人間』に生まれたのではなく、『人』の身に生まれ、人と人との『間』の「つながり」を通じて『人間』に成長していく」と言っていました。
私たちは、関係というつながりがあるからこそ、人間としての「いのち」として存在しているのだと。

そして、この「つながり」というのは、良くも悪くも、私たちから離れることはありません。
「人が亡くなって後に残るものは、手に入れたものではなく、与えたものである」という言葉があるとおり、私たちの寿命という「いのち」を終えても、その想いや願いというのは、縁ある人々の「つながり」の中に、確かに「いのち」として続いていくのでしょう。

十二月・一月の予定
  ※除夜の鐘は納骨堂の工事のため本年度は中止いたします。


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