真宗 大谷派 川勝山 道教寺

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道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2023年6月1日

No.450 2023年6月号

投稿日:2023年6月1日

No.450-2023年6月号

自利利他

自利利他

自分の幸せ(自利)が、他人の幸せ(利他)に繋がり、他人の幸せ(利他)が、自分の幸せ(自利)にも繋がるという教えです。

これを聞くとウィンウィン(自分も勝ち、相手も勝つ)という交渉の言葉を思い出します。
勝者がいれば敗者がいる、そんな考え方が沁みつき、中々素直に受け取りにくい言葉です。

しかし世の中はどうやら勝ち負けで回ってないようで、損得勘定の商売でさえ、ウィンウィンを常に考えています。たとえば、近江商人の考え方に「三方良し」という言葉があります。

「売り手良し、買い手良し、世間良し」という三方にとって良い取引になっていないと、取引しないという考え方です。

商売では当然自分の利益を損なう取引はしません。また、同時に相手の利益も考えます。自分が商品を売って、金銭の利益を得て、相手は商品を得て何かに活用できる利益を得る。相手に全く無価値な物を騙して売ったり、強引に押し付けて、一時的な利益を得ても、信頼を失い、二度と取引をしてくれません。また、両者とも利益があっても、例えば麻薬の密輸など、世間に顔向けできない取引はしないという考え方です。周りの利益を考えることが、自分の利益に繋がるのです。

「情けは人の為ならず」これは、情けをかけるとその人の為にならない、ではなく、人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがて巡り巡って自分に返ってくるという意味です。


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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

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投稿日:2023年5月1日

No.449 2023年5月号

投稿日:2023年5月1日

No.449-2023年5月号

ありがなさい

ありがなさい

保育園の子が、お片付けの後に「ありがなさい」と言っていました。
気になって、尋ねると、彼は悪いことをしたら「ごめんなさい」と言うけれど、良いことをした時に使う言葉がないから自分で作ったと言っていました。
私たち大人にとって、「ごめんなさい」は相手に言う言葉で、「ありがとう」は相手から言われるものです。自分がしたことに「ありがとう」と言う発想はなかったので驚きました。特に大人は自分に言葉をかけるなんて、無意味な気がしてしまいますよね。

その子は単純に、自分が良いことをしたことを言葉に表したかったのでしょう。
しかし、私たちは忙しかったりすると、感謝の言葉を人に対してかけるのすら、忘れがちです。ましてや、自分に対して言葉にするなんて、無意味とすら感じてしまいます。

成長するにつれ、私たちは無駄なことを避けるようになります。言葉は豊富に知っていても、それを口にする機会は減っていきます。しかし、子どもたちは違います。彼らは言葉を知らなくても、思ったことや感動を自由に表現します。子どもたちの心の豊かさに、私はいつも感銘を受けます。

たとえば、大自然の絶景に圧倒された瞬間、日常の中で幸せを感じた時に、私はどうやって、その感動を言葉にすればいいか、分からない時があります。子どもの頃の自分は、いったいどうしていたんだろう。

私たち大人も、子どものような、自由な発想と感性を持ち続ける事が大切だと、子どもたちから教えてもらった気がしました。

五月・六月の予定
 永代経
 5月28日午後2時より


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投稿日:2023年4月1日

No.448 2023年4月号

投稿日:2023年4月1日

No.448-2023年4月号

富

ある書籍によると、狩猟採集社会から農耕社会への転換によって、人類は食料を備蓄し、農具や道具を扱うことで人口を爆発的に増やすことができました。

しかし、この変化が人類の不幸の始まりと指摘されています。
一見、農耕社会の方が安定し、幸福な社会になったと思われるかもしれませんが、実際にはそうではないとされています。

狩猟採集社会では、人々の労働時間は一日平均二時間であり、獲得した食料は平等に分配され、腐らせないように必要最低限の備蓄に留められた為、貧富の差も存在しなかったそうです。
しかし農耕社会では、労働時間が大幅に増加し、田畑を守り育てるために多大な労力が必要とされました。
また、蓄えた食料は財や富として扱われ、貧富の差が広がる要因となったとされています。さらに、狩猟採集社会では、遊牧が基本のため、外敵が現れた場合には、簡単にその土地を離れることができましたが、農耕社会では、土地を守らなければならなかったため、土地をめぐる争いが生じました。

このように、農耕社会になって人類は数は増え、生産性は増したかもしれませんが、一人一人の幸福度は低下した可能性があるという興味深い考察がされています。
仏教では、「財産とは、自己を高め、人々に奉仕するためのものである」とされます。言い換えれば、富を得る事が人生の目的ではなく、その富を利用し自己の成長を促し、他者の幸福に貢献する事が真の豊かさで、幸福な生き方であるという教えがあります。

四月・五月の予定
 永代経
 5月28日午後2時より


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投稿日:2023年3月1日

No.447 2023年3月号

投稿日:2023年3月1日

No.447-2023年3月号

生きる証

生きる証

「人は2度死ぬ」、と言う人がいます。一度は肉体が滅びた時、そしてもう一つは、皆に忘れ去られた時だと。遺された人達の記憶の中に残る限り、私たちが生きている証が存在するのです。

私たちは、生きるために、お金や物を集め、それらを必要として生きています。しかし、一生を終えた時、それらは何の役にも立ちません。本当に残るものは、自分が与えたものです。自分が生きてきた証であり、自分の人生が誰かの人生に影響を与えた証でもあります。

「一生を終えて後に残るものは、 われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものである。」
(ジェラール・シャンドリ)

私たちは、他人に何かを与えることで、その人にとって大きな意味を持つ存在になれます。与えることは、相手を幸せにすることだけではなく、自分自身をも幸せにすることができます。そして、それらは一生を終えた後も、人々の心に残るものです。

生きている間に、自分が与えることができる何かを見つけることが大切です。それはお金や物ではなく、時には自分の時間や心、優しさや思いやりです。自分が与えたものが相手にとって何を意味し、どう影響を与え、そしてそれが自分自身にどういう意味を持つか、考えてみることが大切です。

自分が与えたものが、相手にとって大切なものとなり、自分自身もその喜びを感じることができれば、一生を終えた後も心に残る素晴らしい人生を送ることができるのではないでしょうか。

三月・四月の予定
 ※彼岸会はコロナ感染拡大防止の為内勤と致します。


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投稿日:2023年2月1日

No.446 2023年2月号

投稿日:2023年2月1日

No.446-2023年2月号

葬

葬儀の形は、私が知っている限りでも大きく変わっています。
家で勤める時代から、ホールや会場で行うようになり、最近ではコロナ禍で家族葬が増えたり、急速に変化してきています。

歴史上始めての葬儀跡は、イラクの洞窟で見つかっており、六万年前頃と推定されています。人が人の死を悼み、葬儀をしてきた歴史は、仏教が始まるより、ずっと古いことがわかります。

弔いの形は、時代や場所をによって異なりますが、人が人を悼む心は今も変わっていません。
「死」という漢字の左側の「夕」はお骨を表し、右側の「ヒ」は、そのお骨の前に、人がひざまづく様子を表しているそうです。
つまり、「死」というのは、死者だけで成り立つのではなく、死者を弔う遺された人たちが居て成り立つということです。
生者である遺された人たちが、死者のお骨に向き合い、悲しみながらも「生死」に向き合っていく「弔い」の姿があって始めて、生者と死者ともに「死」が成り立つのです。

そして、「死」の上下に草を書けば、「葬」となります。死者と生者がともに、「死」に向き合って尋ねていく「弔い」を、厳粛な儀式として行ったのが、「葬儀」となります。

日本人は仏教が葬儀のイメージが強いですが、仏教が興る以前から、葬儀の文化は存在します。
儀式作法が違うだけで、弔う心は今も昔も、これからも変わらないでしょう。
急速に変わりゆく現代の葬儀ですが、形が変わっても人が人を弔う、人間らしい営みの心を大切にしていけたらと思います。

二月・三月の予定
 ※彼岸会はコロナ感染拡大防止の為内勤と致します。


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