真宗 大谷派 川勝山 道教寺

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道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2025年1月1日

No.469 2025年1月号

投稿日:2025年1月1日

No.469-2025年1月号

浄土三部経

浄土三部経

新年あけましておめでとうございます。
気温差の激しい日が続きますが、皆様におかれましては、健やかに新年をお迎えのことと存じます。
昨年中は温かいご支援を賜り心より感謝申し上げます。本年も変わらぬご愛顧賜りますようお願い申し上げます。
皆様にとって、今年も健やかで穏やかとなりますよう祈念致します。

『浄土三部経』
浄土真宗のお経をご存知でしょうか?帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)で始まる正信偈(しょうしんげ)をお経と思われる方もいますが、正しくは親鸞聖人が作られた詩で、お経ではありません。
お経とはお釈迦さまが説かれた教えを記したものです。では、浄土真宗が大切にする「お釈迦さまのお経」とは何でしょうか?
それが、「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」と呼ばれる三つのお経です。
以下に簡単にご紹介します。
『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』
略して「大経(だいきょう)」とも呼ばれ、阿弥陀仏(あみだぶつ)が修行者であった頃に立てられた「本願」が詳しく説かれています。お釈迦さまは、このお経について「私がこの世に生まれてきた目的は、阿弥陀仏の本願を説くため」と述べられています。この本願こそが、浄土真宗の教えの根本です。

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』
「観経(かんぎょう)」とも呼ばれ、暴虐な息子・阿闍世(あじゃせ)太子によって牢に閉じ込められた韋提希(いだいけ)夫人を救う為、お釈迦さまが説かれたもので、阿弥陀仏の本願を聞いた夫人は、絶望から希望へと心を転じました。このお経は、「心の向かう先を変えることで人生が変わる」という教えを示しています。

『阿弥陀経(あみだきょう)』
略して「小経(しょうきょう)」とも呼ばれ、極楽浄土の美しい様子が描かれています。蓮華(れんげ)の咲き誇る浄土や清らかな池の描写が印象的です。また、このお経は「無問自説(むもんじせつ)」として知られています。他のお経は、誰かが質問し、それにお釈迦さまが答える形で始まりますが、『阿弥陀経』は違います。誰も問うことなく、お釈迦さまが自ら語り始められました。これは、「これだけは説いておかなければならない」とお釈迦さまが特に重要視された教えだったからです。

これらを三部経と呼び法要等で勤めます。


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『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

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投稿日:2024年12月1日

No.468 2024年12月号

投稿日:2024年12月1日

No.468-2024年12月号

塵を払い、垢を除かん

塵を払い、垢を除かん

年の瀬となり、大掃除の季節になりました。新年を心地よく迎える為に、普段以上に念入りに掃除をする方も多いのではないでしょうか。家の中が整うと心も気持ちもすっきりしますよね。

掃除といえば、お釈迦様のお弟子・周利槃特(しゅりはんどく)の話を思い出します。彼はとても物覚えが悪く、なんと自分の名前さえも覚えられなかったと言います。周囲の弟子たちからも笑われ、恥ずかしい思いをした彼は、「自分は仏弟子としての資格がない」と教団を去ろうとしました。その時、お釈迦様は彼に一本の箒(ほうき)を渡し、「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除かん」と唱えながら掃除をしなさい、と勧められます。周利槃特は言われた通り、毎日「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃除を続けました。

掃除を続ける彼はある日、掃除したばかりの場所を子どもたちが汚してしまい、彼は思わず怒りを爆発させてしまいました。その瞬間、彼はハッと気づきます。「お釈迦様がおっしゃる塵や垢は、外にある物だけでなく、私の心の中にも怒りや欲望、人に認められたい、そんな執着が積もっていたんだ」と。この気付きから、掃除はただの作業から自分の心の掃除へ変わりました。そして長い年月をかけ、周利槃特は阿羅漢(あらかん)という悟りの境地に達したのです。

掃除という行いは、目に見えるものをきれいにするだけでなく、自分の内面を見つめる時間にもなります。例えば、どんなに綺麗にしたと思っても、またすぐに汚れが溜まるように、私たちの心も気づかぬうちに煩悩(ぼんのう)や迷いで曇っていきます。それらを放置せず、気づくたびに払い清める。その繰り返しが、心を整え、日々を心地よく生きることにつながるのではないでしょうか。

今年の大掃除は、周利槃特のように「塵を払い、垢を除かん」と心で唱えながら取り組んでみてはいかがでしょう。きっと、掃除をしながら新しい発見や気づきが得られるかもしれません。そしてきれいな空間と清々しい心で、新しい年を迎えられますように。


十二月・一月の予定
はぐくみの鐘
 十二月三十一日(火)
  午後八時より
   ※お蕎麦お雑煮をご用意しています。


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投稿日:2024年11月1日

No.467 2024年11月号

投稿日:2024年11月1日

No.467-2024年11月号

自己とは何ぞや。

自己とは何ぞや。

この言葉は、大谷大学の初代学長である清沢満之が遺したもので、私が住職になる為の修練を受けた際のテーマでした。
修練では、様々な背景や価値観を持つ人々と寝食を共にし、座談を通じて多くのことを話し合いました。
その中で、自分はどうなのかと自らを見つめ直す機会を得ました。

私たちは普段、自分のことをよく知っているつもりで過ごしていますが、実際には他者との関わりの中でしか本当の自分は見えてこないものです。独りで考えていても答えは曖昧で、悶々とするばかりです。
なぜなら、自分の姿は自分では一番見えにくいからです。まるで鏡がなければ自分の顔が見えないように、自己を知るためには他者という「鏡」が必要です。
他者との関わりを通して、自分の言動がどう映し出され、どう受け取られているかを知ることで、初めて本当の自分に気づくことができるのです。周囲との関係性の中でこそ、私たちは自己を理解し、成長していけるのです。

これは現代を生きる私たちへの問いでもあります。日常の中で多くの人や出来事に出会い、時には喜びや悲しみを経験しますが、果たして私たちは本当に自分自身と出会っているでしょうか。「私はこうだ」と決めつけ、他者と向き合わずに自己を見失っていることもあるのではないでしょうか。

私も住職として多くの人々と関わり、様々な経験を重ねてきましたが、やはり自分自身と本当に向き合っているかという問いは常にあります。他者との関わりの中で自己が少しずつ見えてくる反面、時には見失うこともあります。だからこそ、他者との関係を大切にし、自己を探し続けることが必要だと感じています。

私たちは誰とも代わることのない一度きりの人生を生きています。
その中で、自分と出会い、本当の自分を知ることが、まさに「人生の根本的問題」なのかもしれません。
この問いに向き合い続け、少しずつでも自己を明らかにしながら歩んでいきたいと、改めて感じています。


十一月・十二月の予定
はぐくみの鐘
 十二月三十一日(火)
  午後八時より
   ※お蕎麦お雑煮をご用意しています。


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投稿日:2024年10月1日

No.466 2024年10月号

投稿日:2024年10月1日

No.466-2024年10月号

聞

日常で、話を聞くという行為は当たり前ですが、仏教では「聞思」「聞法」といわれるように、聞くことが修行の一環として大切な意味を持っています。
一方、「分かった」という事は、非常に危険な事とされます。例えば、昔誰かに叱られた時「分かった、分かった」と口にしませんでしたか?それは、早くその話が終わって欲しい、そんな気持ちから発してはいませんでしたか。

人は、最初に聞いた事や自分が納得した事に対し「分かった」と安易に頷きがちです。そして「分かった」と思った事と異なる事を言われると、自分を守るため反論しがちです。たとえ、それが自分にとって新しい知見や、正しいものでも、素直に受け入れるのは難しいと感じることが多いでしょう。

実際、人の話を本当に聞くということは、思っている以上に難しい行為です。特に、自分の知識や経験が増えれば増えるほど、他者の話を柔軟に受け入れることが難しくなります。

阿弥陀経(あみだきょう)に、「舎利弗(しゃりほつ)」というお釈迦様の智慧第一の弟子が登場します。彼はお釈迦様の悟りに最も近く、後継者と期待された存在ですが、阿弥陀経の中では一度も言葉を発しません。
お釈迦様が彼の名前を36回も呼びますが、舎利弗はただ沈黙し、聞き続けるだけなのです。この経典は他のお経が質疑応答形式で書かれているのに対し、無問自説経と呼ばれ、問いもなく説法が続いています。

では、なぜ舎利弗は「分かりました」と言わないのでしょう。それは「分かった」と言った瞬間、お釈迦様の話をもう聞く必要がない事になります。
「こういうことですか?」と確認する事も、ただ理解していると主張するだけでしかありません。舎利弗は、ただひたすらお釈迦様の言葉を聞き続けたいと思っていたのでしょう。

私たちも、話を聞くときに「分かった」と簡単に結論づけるのではなく、常に問いを持ちながら聞き続けることが大切です。その姿勢こそが、新たな気づきや成長をもたらしてくれるのではないでしょうか。


十月・十一月の予定
報恩講
 十月二十七日(日)午後二時より
   二十八日(月)午後二時より
   ※園児参拝二十七日


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投稿日:2024年9月1日

No.465 2024年9月号

投稿日:2024年9月1日

No.465-2024年9月号

謝

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
(恩徳讃)

恩徳讃は、阿弥陀如来の慈悲とそのご恩に対する喜びと『感謝』の歌です。
親鸞聖人が84歳の時、息子・善鸞との断絶という深い悲しみの中で生まれた和讃の一つです。
阿弥陀如来は、そんな深い悲しみや痛みに直面しても生きるしかない私たちを救う為、先に身を粉にし、骨を砕くようなご苦労されている。そのご恩に対し親鸞聖人は、いくら身を粉にし、骨を砕いても足りないほどの、溢れんばかりの喜びと、如来の慈悲とご恩と徳に対する深い感謝の気持ちが込められています。

さて、「感謝」という言葉は「謝りを感ずる」と書きますが、「感謝」に「謝り」という文字があることに違和感を覚えるのは私だけでしょうか。謝罪にも使われる「謝り」は何となく理解できますが、「ありがとう」の感謝に言葉にも使われているのは不思議に思い調べてみました。

『謝』という字を調べると、「心の負担をおろしてせいせいする」という解釈が出てきますが、少しわかりにくいですよね。『謝』という漢字は「言」と「射」で成り立っています。「言」は言葉を意味し、「射」は張り詰めた弓が放たれて、その緊張が解ける様子を表しています。つまり、言葉にすることで心の緊張や不安が解け、心の負担が軽くなる様子を表しているのです。

例えば、一人で頑張って張り詰めている時、そっと助け船をだしてもらって気持ちが軽くなり、「ありがとう」。
また、些細な言い合いで意地を張り、冷静になって自分の間違いに気づき「ごめんね」
これらは、「感謝」や「謝罪」の言葉を発することで、張り詰めた気持ちがほぐれる様子を表しています。
だからこそ、「ごめんね」や「ありがとう」を言葉にして伝えることは、相手のためだけではなく、自分のためにもなるのでしょう。


九月・十月の予定
報恩講
 十月二十七日(日)午後二時より
   二十八日(月)午後二時より
   ※園児参拝二十七日


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