真宗 大谷派 川勝山 道教寺

真宗 大谷派 川勝山 道教寺

道教寺報DOKYOJI REPORT

投稿日:2024年10月1日

No.466 2024年10月号

投稿日:2024年10月1日

No.466-2024年10月号

聞

日常で、話を聞くという行為は当たり前ですが、仏教では「聞思」「聞法」といわれるように、聞くことが修行の一環として大切な意味を持っています。
一方、「分かった」という事は、非常に危険な事とされます。例えば、昔誰かに叱られた時「分かった、分かった」と口にしませんでしたか?それは、早くその話が終わって欲しい、そんな気持ちから発してはいませんでしたか。

人は、最初に聞いた事や自分が納得した事に対し「分かった」と安易に頷きがちです。そして「分かった」と思った事と異なる事を言われると、自分を守るため反論しがちです。たとえ、それが自分にとって新しい知見や、正しいものでも、素直に受け入れるのは難しいと感じることが多いでしょう。

実際、人の話を本当に聞くということは、思っている以上に難しい行為です。特に、自分の知識や経験が増えれば増えるほど、他者の話を柔軟に受け入れることが難しくなります。

阿弥陀経(あみだきょう)に、「舎利弗(しゃりほつ)」というお釈迦様の智慧第一の弟子が登場します。彼はお釈迦様の悟りに最も近く、後継者と期待された存在ですが、阿弥陀経の中では一度も言葉を発しません。
お釈迦様が彼の名前を36回も呼びますが、舎利弗はただ沈黙し、聞き続けるだけなのです。この経典は他のお経が質疑応答形式で書かれているのに対し、無問自説経と呼ばれ、問いもなく説法が続いています。

では、なぜ舎利弗は「分かりました」と言わないのでしょう。それは「分かった」と言った瞬間、お釈迦様の話をもう聞く必要がない事になります。
「こういうことですか?」と確認する事も、ただ理解していると主張するだけでしかありません。舎利弗は、ただひたすらお釈迦様の言葉を聞き続けたいと思っていたのでしょう。

私たちも、話を聞くときに「分かった」と簡単に結論づけるのではなく、常に問いを持ちながら聞き続けることが大切です。その姿勢こそが、新たな気づきや成長をもたらしてくれるのではないでしょうか。


十月・十一月の予定
報恩講
 十月二十七日(日)午後二時より
   二十八日(月)午後二時より
   ※園児参拝二十七日


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



投稿日:2024年9月1日

No.465 2024年9月号

投稿日:2024年9月1日

No.465-2024年9月号

謝

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
(恩徳讃)

恩徳讃は、阿弥陀如来の慈悲とそのご恩に対する喜びと『感謝』の歌です。
親鸞聖人が84歳の時、息子・善鸞との断絶という深い悲しみの中で生まれた和讃の一つです。
阿弥陀如来は、そんな深い悲しみや痛みに直面しても生きるしかない私たちを救う為、先に身を粉にし、骨を砕くようなご苦労されている。そのご恩に対し親鸞聖人は、いくら身を粉にし、骨を砕いても足りないほどの、溢れんばかりの喜びと、如来の慈悲とご恩と徳に対する深い感謝の気持ちが込められています。

さて、「感謝」という言葉は「謝りを感ずる」と書きますが、「感謝」に「謝り」という文字があることに違和感を覚えるのは私だけでしょうか。謝罪にも使われる「謝り」は何となく理解できますが、「ありがとう」の感謝に言葉にも使われているのは不思議に思い調べてみました。

『謝』という字を調べると、「心の負担をおろしてせいせいする」という解釈が出てきますが、少しわかりにくいですよね。『謝』という漢字は「言」と「射」で成り立っています。「言」は言葉を意味し、「射」は張り詰めた弓が放たれて、その緊張が解ける様子を表しています。つまり、言葉にすることで心の緊張や不安が解け、心の負担が軽くなる様子を表しているのです。

例えば、一人で頑張って張り詰めている時、そっと助け船をだしてもらって気持ちが軽くなり、「ありがとう」。
また、些細な言い合いで意地を張り、冷静になって自分の間違いに気づき「ごめんね」
これらは、「感謝」や「謝罪」の言葉を発することで、張り詰めた気持ちがほぐれる様子を表しています。
だからこそ、「ごめんね」や「ありがとう」を言葉にして伝えることは、相手のためだけではなく、自分のためにもなるのでしょう。


九月・十月の予定
報恩講
 十月二十七日(日)午後二時より
   二十八日(月)午後二時より
   ※園児参拝二十七日


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



投稿日:2024年8月1日

No.464 2024年8月号

投稿日:2024年8月1日

No.464-2024年8月号

法名・戒名

法名・戒名

子供が生まれる時、親御さんや家族がその子の健やかな成長や幸せな未来を願って思いを形にするのが、お名前だと思います。それと同じく、法名や戒名も人の生き様や、思いや願いが形となっている重要なものです。

法名や戒名は通常、亡くなった後に付けられる場合が多いので、個人的にはその人の生前の足跡や、大切にしていた思いが込められる法名になれば、ご家族にとっても親しみやく、故人への偲いを馳せる手がかりにもなると思っています。
お葬式で法名を考える際も、故人の名前やお経から文字を頂く場合も多いですが、もっと時間があれば、より深くご家族のお話などを伺って、故人のお姿を表した法名が付けられればと、常に思っています。
しかし、現実には急なお葬儀が多く、ご家族もご準備に追われる中、そのような時間が中々取れずにいます。

また、浄土真宗では法名ですが、他宗で一般的によく言う戒名とは、意味合いが異なります。
戒名は、仏教徒として、戒律守りながら修行を行う人々が持つ名前として与えられます。その人の修行と信仰、社会貢献度に応じて、位(くらい)・階位があり、居士(こじ)、大居士(だいこじ)などの位号(いごう)が付けられます。

一方で、浄土真宗の法名は「戒律を一つも守ることができずに苦悩する私たちを必ず救い、浄土へ迎える」という阿弥陀如来のはたらきに身を委ねる、念仏者としての名告(なの)りです。

また、法名は「釋(しゃく)〇〇」として、お釈迦さんである、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の姓である「釋」を頂戴し、仏弟子であることを意味し、女性の場合は「尼」を加え「釋尼(しゃくに)〇〇」と表されます。

また、法名は念仏者としての名告りであり、本来は死後に付けられるものではなく、本山などで行われる敬帰式(ききょうしき)において、法名を受けることが出来ます。
また、ご興味がありましたら、お気軽にお問い合わせください。


八月・九月の予定
 お盆会
  八月十五日 勤行 午後五時より
 灰供養
  八月十六日 受付 午後四時三十分
        勤行 午後五時より


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



投稿日:2024年7月1日

No.463 2024年7月号

投稿日:2024年7月1日

No.463-2024年7月号

業縁

業縁

私たちが日常でしばしば目にするのは、お酒の席での率直な本音や、怒りに任せて口にした言葉です。
これらを捉えて「この人の本性はこうだ」「あの人の本性はこうに違いない」と簡単に断言することがありますが、それは本当に正しい判断なのでしょうか?

「お酒を飲むと素が出る」なんて、よく言いますが、それは、果たして本当のことなのでしょうか?
確かに、感情やお酒の勢いに任せて、普段出さない一面が表に出る事もあるかもしれませんが、その一面が全てその人を表しているのでしょうか。

お酒の席の姿や、怒りに身を任せた姿は、本当の自分を表すというよりも、その時の状態の自分であると考えるべきではないでしょうか。お酒に酔った状態の自分だし、怒って感情的な自分でしかない。

私たちは、自分には一定の「本当の自分」があると感じがちですが、実際には私たちの本質は常に流動的です。
親鸞聖人も『歎異抄』で、経験や行動の積み重ねである「業(ごう)」と、周りの環境である「縁(えん)」によっては、いかなる振る舞いもすべし、と仰っています。

人は一貫した存在ではなく、様々な影響を受け変化していきます。
私たちの言動も、時間や場所、感情によって日々変わる為、昔はこうだと思っていた事も、後から何故そう思っていたのだろうと感じる事も珍しくありません。
「そんな時もあるよ」という言葉が思いのほか、適切なのかもしれません。

だからこそ、一つの瞬間や出来事で、人を判断するのは避けるべきです。
私たちの存在は、多くの縁が複雑に絡み合い形成されています。
「自分を変えたければ環境を変えろ」という人もいる程、私たちは周りの環境や他者の影響を多く受けます。
私たちは一言で「こんな人だ」と断ぜられるほど単純な存在ではありません。
だから、人を一面で判断するのではなく、広い視野で物事を捉えるべきなのかもしれません。


七月・八月の予定
 お盆会
  八月十五日 勤行 午後五時より
 灰供養
  八月十六日 受付 午後四時三十分
        勤行 午後五時より


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



投稿日:2024年6月1日

No.462 2024年6月号

投稿日:2024年6月1日

No.462-2024年6月号

無量

無量

先日、興味深い話を耳にしました。
それは人間関係を上下で捉えるのではなく、平面で捉えるという考え方です。
私たちはしばしば、友達が多い人や自分より豊かな生活をしている人、職場の先輩や後輩を見て、自分と他人を比較しがちです。
この人は自分より上だと思うと、自信を失ったり、恐れを感じたり、時には嫉妬してしまったりすることがあります。
しかし、人と人との関係を上下ではなく、平面で捉えるとどうでしょうか。
人には上下の違いはなく、私たちは皆、同じ平面上で、それぞれの道を進んでいるのです。
そう考えると、自分と他人を比較することなく、それぞれが自分の道を歩んでいるだけだと気付くことができます。

ここで、浄土真宗の教えに触れます。
阿弥陀如来は「無量寿如来」とも呼ばれ、「無量」という言葉には「量ることの無い」という意味があります。
この「無量」は、私たちの命や価値は他人と比べる必要なく、それぞれが尊く価値あることを表します。
「量る」というのは、比べるという意味で、つい人と比較しがちな私たちの生き方から離れた阿弥陀如来の働きを表しています。

私たちの人生も本来は「無量」であり、誰一人として他と比較することはできません。
それぞれがそれぞれの目的地に向かって進んでおり、たとえ同じ事をしても、全く同じ速さで、全く同じルートを進むことはあり得ません。
私たちは人生の出発点も目的地も、それぞれ違っているのです。進み具合が違っていて当然です。

もし同じような道を一緒に歩んでいるのであれば、それは比べる対象ではなく、同じ道を行く仲間だと捉えることができます。
そう考えると、この人より上だ、とか下だ、とか考える必要はなくなり、ただ今少し先を行っている人だと思えます。
そうすると、先行く人に、素直に教えを乞うことができるし、後から続く人に手を差し伸べることも出来ます。

私自身、つい他人と自分を比較して勝手に劣等感を感じてしまうことがありますが、この話を心に留め、劣等感や優越感に振り回されず、人と比べない生き方でありたいと願います。


----------------------------------------------

『ともに聞く・心のしるべ・照らす帰途』

泉州・貝塚・納骨・葬儀・法要・お墓・ご相談

----------------------------------------------

dokyoji.gram



PAGE TOP